第16回:ちょっと怖い!? 日本でも有名な中華英雄にまつわる風習あれこれ

文:中国エトセトラ編集部

1:「酉陽雑俎」
(撰:段成式 訳注:今村与志雄/平凡社) 1470円(税込) 唐代後期に編纂された怪異随筆集。
※電子書籍として発売中

2:「中国怪談」
(角川ホラー文庫/角川グループパブリッシング) 540円(税込)
芥川龍之介や中島敦にも影響を与えたという伝奇などが収録された怪談傑作選

3:「中国怪談奇談集」
(著:多久弘一/里文出版)1470円(税込) 
晋・宋・清代から伝わる怪談、奇談を集めた怪異譚



4:政治家として、呉の強化に尽力した伍子胥。ドラマでも貫禄のある風体だ

5:策を練る伍子胥。だが頭が良すぎたことが災いし、謀反の嫌疑をかけられる事に

6:伍子胥に死を命じる呉王・夫差。だがその判断が、やがて国を滅亡に追い込むことに

7:伍子胥、夫差らが登場するドラマ作品『復讐の春秋―臥薪嘗胆ー』

中国の歴史には、さまざまな英雄たちが活躍する武勇伝が星の数ほどあります。そしてそれと同じくらい、非業の死を遂げた英雄たちによる怨念話もあり、「恨みを抱え無念の死を遂げた者は、怨霊となって生者を祟る」という信仰は、今でも中国に根強く残っているそうです。その中には、中華歴史ドラマ列伝の登場人物に縁のあるエピソードもあり、彼らを鎮めるために行われた供養の風習の中には、日本にも伝わっているものもかなりあるようです。そこで今回は、ドラマ作品に縁のある英雄や「三国志」の人気武将・関羽にまつわる怪談話をお伝えしながら、彼らを祀る風習が伝来後、どういう形で現代に至っているのかも踏まえてご紹介していきたいと思います。

◇お盆の"供養物の川流し"は、死を賜った名参謀が起源?

伍子胥(ごししょ) ... ???~紀元前484年

『復讐の春秋―臥薪嘗胆ー』に主要人物として登場する伍子胥は、呉王・闔閭(こうりょ)やその息子である夫差(ふさ)に仕えた春秋時代の政治家です。「死屍に鞭打つ」の語源になるほど苛烈な性格で、知略の限りを尽くして呉の国力強化に努めたものの、対外政策に関する考え方の相違から、次第に夫差との折り合いが悪くなっていきます。さらに敵国・越の謀略や、出世を妬む者の諌言によって追い詰められた彼は、ついに自害を強いられてしまいます。その死に際に放った恨みの言葉が、さらに夫差の逆鱗に触れたようで、伍子胥の遺体は皮袋に詰められ長江に投げ捨てられてしまいます。それ以降、長江では洪水がたびたび起こるようになり、人々の生活を圧迫するようになったとか。これを伍子胥の祟りだと畏れた人々は、長江の流域に祠を立て、川に供養物を流すことで、その怨念を鎮めたそうです。それが日本にも伝わり、お盆に供養物を川で流す風習が出来たのだと言われています。

◇"端午の節句"の由来となった、中国版・菅原道真

屈原(くつげん) ... 紀元前343年~紀元前278年

『大秦帝国』で描かれる時代と、ほぼ同時期に当たる戦国時代後期。楚の国に仕えていた政治家の屈原は、改革の成功により圧倒的な軍事力を誇るようになった秦に対抗するべく、数々の策を王に提案します。しかし、それらが聞き入れられることはなく、秦の政治家・張儀(ちょうぎ)の謀略もあって、楚は徐々に国力を失っていきます。その後も幾度となく対抗策を打ち出すものの採用されることはなく、すっかり意欲をなくした彼は江南の地へと左遷されてしまいます。その地で屈原は、世を憂いながらひっそりと暮らしていましたが、楚の首都が攻め滅ぼされたとの知らせを聞くと、いよいよ絶望してしまい、汨羅江(べきらこう)に身を投げて入水自殺を遂げてしまうのでした。「才気に溢れながらも左遷され、無念のうちに没するという経緯は、日本における菅原道真のイメージと重なるところが多く、彼も道真と同様、怨霊となって数々の天変地異を引き起こしたと言われています。その霊を鎮めるべく、毎年、屈原の命日である5月5日には笹の葉で包んだ米の飯を川に投げ込む風習が出来たそうで、これが日本に伝わり"端午の節句"という形で全国に広まったそうです。ちなみに、このとき川に投げ込まれた"笹の葉で包んだ米の飯"が、ちまきの起源であるとも言われています。

◇中華街でおなじみの関羽も、神様になるまでは怖~い怨霊だった

関羽(かんう) ... ???~219年

「三国志」屈指の人気武将であり、商売の神様"関聖帝君"として日本でも知られている関羽。そんな彼も、現在のように関帝廟に祀られ神格化されるまでには、怪談めいたエピソードが数多くあったようです。後漢末期、劉備と義兄弟の契りを交わし東奔西走の活躍ぶりを見せていた関羽は、その存在を危険視する孫権・曹操の連合軍に攻め込まれ、あえなく殺されてしまいます。しかし小説版である「三国志演義」では、ここから関羽の凄まじい復讐劇が始まります。まずは計略を駆使して関羽を死に追いやった武将・呂蒙(りょもう)にとり憑き、全身から血を吹き出させて殺してしまいます。続いて、直接殺害に加わった呂蒙の部下たちも同様の方法で次々と呪い殺してゆき、孫権軍を震え上がらせます。その翌年になると、今度は曹操の枕元に毎晩現れるようになり、彼も呪いで殺してしまったとか。こうして自分を死に至らしめた者たちを葬り去った関羽は、旧知の仲である僧のもとに現れ、自らを祀る廟を建ててもらうことでようやく成仏したと言われています。

実際のところ、関羽の人気は当時からすでに高く、民衆の間では"忠臣・武人の鑑"として崇められていたそうです。それが北宋時代に入って道教と結びつくことで神格化され、さらに時代が下ると共に"神"としての地位も向上してゆき、いつしか現在の"関聖帝君"として祀られるようになったそうです。

※関羽の義弟・張飛にも怪談話が...!?

関羽と同じく「三国志」の人気武将である張飛。彼もまた、部下の裏切りによって非業の死を遂げた人物であり、その死後に亡霊となって現れたという逸話が残されています。しかし彼に関しては笑い話の類が多く、明末期に編纂された「笑府(しょうふ)」という書物には「自分の亡骸を供養してくれた男のもとに、張飛が霊となって夜伽のためにやってくる」というエピソードも収録されています。ちなみに日本には、この話を題材にした「野ざらし」という落語もあるそうです。


上記の「笑府」は笑い話ばかりを集めた書物でしたが、この他にも中国には、古来より伝わる神仙や幽霊、妖怪などについて記された怪異譚が数多くあるようです。いくつか例を挙げると、唐代に編纂された「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」や、清の時代の書物「聊齋志異(りょうさいしい)」がそれに当てはまります。また、それらの文献に載っている怪談話の中には『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』や『霊幻道士』シリーズとして、映画化されている作品もあるようです。ちなみに「酉陽雑俎」は現在、翻訳され日本でも読めるようになっているので、古代中国の人々が震え上がった怪談話の数々を、ご家庭でも堪能されてみてはいかがでしょう。また、こうやってさまざまな角度から中国の歴史に触れていくことで、中華歴史ドラマももっと楽しむことが出来るのではないでしょうか。


第15回 「歴史群像」新井編集長に聞く、日本における中国史ファンの現状とは!?

文:中国エトセトラ編集部

1:「歴史群像」の新井邦弘編集長が、中華歴史ドラマの魅力を語ってくださいました

2:最新の「歴史群像」を携える新井編集長

3:「歴史群像」
(2009年8月号)は定価1000円(税込)で絶賛発売中! 



4:先日実施された『大秦帝国』トークショー時の新井編集長(左)と阪南大学教授・来村多加史氏(右)

5:「歴史群像」編集部にもお邪魔してきました

6:新井編集長のお気に入りキャラクター・勾践

7:勾践の活躍する作品『復讐の春秋 -臥薪嘗胆-』

"戦略・戦術・戦史"に関する検証を中心に、歴史のおもしろさを提唱する雑誌「歴史群像」(ただいま8月号が絶賛発売中!)。これまでにも「墨子の兵法」や「モンゴル騎馬軍団」など、独特の視点から中国史に切り込んできた本誌で舵取りをされているのが、先日行なわれた『大秦帝国』トークショーにもご出席いただいた新井邦弘編集長です。 "軍事"の面から、春秋・戦国時代のおもしろいエピソードをたっぷり語っていただいたので、印象が強く残っている中華歴史ドラマ・ファンの方も多いのではないでしょうか。今回は、そんな新井編集長に改めてドラマ・シリーズの見どころや、日本における中国史ファンの現状について語っていただきました。

編集部(以下:編):「歴史群像」の構成が、戦略や戦術の解説が中心となっている理由を教えてください。

新井編集長(以下:新):もともと歴史ファンには "乱世"と呼ばれる時代が人気で、日本史では戦国、幕末、太平洋戦争などの時代が該当しますね。この時代にはたくさんの英雄が活躍し、ドラマチックな戦いが数多く繰り広げられています。そこで展開される戦術や戦略について知りたいという人も多いのではないかと思ったのが、構成のそもそものきっかけです。 一方、中国史のファンは、故事成語や文学作品を通して、そこで描かれる人間ドラマに興味を持つ人が多いようで、武器や軍事への関心はあまり強くなかったように思えます。そこで、やるからには国や時代を問わず徹底的に踏み込んで分析しようと考え、実践してみたところ見事にヒットしました。

編:具体的に、どのような特集を組まれたりしたのですか?

新:中国の武器の歴史を調べる上で、弓や弩(ど)はいつごろ出来たのか? また、威力はどれ程のものか? などの検証を企画しまして。その時は武器を実際に作ってみたりもしましたよ。古代の資料を調べていくうちに「せっかくなら自分たちで作って、威力を直接確かめてみよう」という流れになったんですね(笑)。ちなみに『大秦帝国』に出てくる投石器も作った事があります。こういったアプローチが、クラシックな歴史ファンだけではなく、漫画やゲームを通じて中国史に入ってきた方たちにもウケたんでしょうね。

編:そういった中国史ファンの間では、どの時代が人気なのでしょう?

新:やはり「三国志」は別格ですね。そこを入り口にして、中国史に入ってくる人が圧倒的に多いです。そこから司馬遼太郎さんの小説にハマって「項羽と劉邦」の時代に興味を持ったり、「史記」で描かれる春秋・戦国時代に流れていくというパターンが主流なのではないでしょうか。この時代も「三国志」に負けず劣らず、様々な英雄が登場しますからね。孫子や墨子といった著名な兵法家も活躍しますし。また、軍事の面から見れば、騎馬民族と農耕民族の文化が融合した元の時代もおもしろいし、日本とも縁のある明の時代も調べ甲斐がありますね。

編:その観点から、最近の中国エンタメ作品は、どんな面白さがありますか?

新:最近は、衣装や武器の作りこみが、以前と比べるとだいぶしっかりしていますよね。職業柄、劇中で描かれる軍事面に目がいくのですが、時代考証はやはり気になりますね(笑)。 中華歴史ドラマ列伝では、主役級の俳優の芝居がウマイですね。言葉が分からなくても、観ているだけで気迫や意志が伝わってきて、その世界観に引き込まれます。 また、兵士たちが騎乗したまま剣を振り回して戦うシーンなどドラマ的なフィクションもありますが、歴史の知識と映画的な演出を、ともに分かった上でドラマを楽しめば良いのでは、と思っています。

編:「中華歴史ドラマ列伝」の登場人物で、お気に入りのキャラクターはいますか?

新:『復讐の春秋 -臥薪嘗胆-』の勾践(こうせん)が良いですね。主人公ではあるけれども絶対的な善人ではなく、かといって悪人でもないという描かれ方が絶妙です。そもそも本編が復讐の物語ということもあって、完全な善人として描けないのだろうけど、それが勾践を魅力的な人物として見せるのに一役買っているのではないでしょうか。 そして、彼が絶対的な正義ではないので、脇役の意見や考え方の方が正しく思える場面があったりするのもおもしろいです。各人物が、それぞれ国を大切に思うからこそ対立する論争シーンの緊張感は、本当によく出来ていると思います。

編:中国史を扱ったエンタテインメント作品の今後について、見解をお聞かせください。

新:「三国志」のファンの関心が、どう他の時代に転換されるかがカギですよね。『レッドクリフ』がヒットしたからといって、同様に「項羽と劉邦」を映画化してもヒットするとは限りませんから。けれどもこうしたエンタテインメントの挑戦は、中国史そのものに関心を持つきっかけになります。そういう意味では、こうしたドラマは中国史への敷居を下げてくれる良い入口と言えますね。春秋・戦国時代や『-大明帝国- 朱元璋』の舞台である明の時代など、さまざまな時代を描いたドラマがどんどん送り出されることで、中国史の連続性が目に見える形で形作られれば、ファンの裾野はもっと広がると思います。


――新井編集長に語っていただいたとおり、中国には「三国志」以外にもまだまだおもしろい時代がたくさんあります。これからも、それらの時代を描いたドラマ作品を続々とご提供していくことで、中国史のおもしろさをより多くの皆さんに体感していただきたいと思います。また、その際「歴史群像」でさらに詳しい知識を身につけておけば、ドラマがより一層楽しめることは間違いないでしょう。

第14回 斉の桓公から越の勾践まで 激動の春秋時代に生まれた故事成語を大紹介!

文:中国エトセトラ編集部

1:「復讐の春秋 -臥薪嘗胆-」

2:呉王・夫差。領土拡大の野心に燃える若き君主

3:越王・勾践。“臥薪嘗胆”を実践し、復讐の時をうかがう



4:夫差の父、闔閭。強大な勢力を誇るも、慢心から身を滅ぼすハメに

5:勾践を支え続けた政治家・范蠡。数々の奇策を用いて呉を翻弄する

6:戦に敗れた勾践は、捕虜として呉に連行されることに

7:壮大な合戦シーンも、本作の見どころの一つ

7月3日(金)よりリリースが開始する「復讐の春秋 ―臥薪嘗胆―」は、激動の春秋時代を舞台に、ライバル国同士の争いや、主従間の腹の探り合いなど、権謀術数の限りを尽くしてぶつかり合う男たちの姿を描いた壮大な歴史ドラマ。ちなみにこの時代は、国内に動乱の嵐が吹き荒んだ時期であり、多くの英雄が乱立した時代でもあります。そんなドラマチックな時代を象徴するように、たくさんの故事成語が生み出されたのも春秋時代の大きな特徴の一つ。そこで今回は、「復讐の春秋~」の登場人物が深く関わったモノを中心に、この頃に作られた故事成語の数々をご紹介していきたいと思います。

◇ちなみに春秋時代とは?

BC770年~BC403年。300年近く続いた周王朝の衰退に併せて、各地の諸侯がこぞって台頭、次代の覇権をめぐり争った時代を指します。その中で、まず最初に名乗りを上げたのが、"太公望"の呼び名で知られる呂尚(りょしょう)を始祖とする、斉の国の桓公(かんこう)。宰相・管仲(かんちゅう)の後押しもあり、一時は諸侯の盟主の座に就くほど勢力を強めるものの、彼の死後、斉は急速に衰退し覇権争いから脱落してしまいます。その後も中原では、いくつもの国が台頭しては消えていく群雄割拠の時代が続きます。そんな中、長江の流域では呉・越という2大国家が台頭し、熾烈な争いを繰り返すようになります。「復讐の春秋~」の物語は、この激動の時代の真っ只中で展開していくことになるのです。

■臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

越王・勾践(こうせん)により、呉王・闔閭(こうりょ)が殺されてしまった時のこと。子の夫差(ふさ)は復讐を誓い、毎晩薪の上で寝て恨みを忘れないようにしました。数年後、富国強兵に励んだ呉は越に攻め込み、見事大勝利をおさめます。そして、勾践は呉の捕虜となってしまいますが、その屈辱を忘れないよう、毎日、苦い肝を嘗めるようにしました。やがて解放された勾践は、恨みを忘れることなく国力の強化に着手しはじめ、夫差が油断した隙に一気に攻め込み、これを打ち滅ぼしてしまうのでした。この時、夫差と勾践が取った行動を合わせて"臥薪嘗胆"と呼び、「目的を成し遂げるために苦心し、努力を重ねること」を意味する故事成語として知られるようになりました。ちなみに、2人の人物が関わった故事成語だと記されているのは、14世紀に編纂された「十八史略」からで、それ以前の歴史書には、勾践のみのエピソードとして記録されています。「復讐の春秋~」の物語は、後者を参考に描かれています。"臥薪嘗胆"が生まれるまでの具体的な流れは、是非、本編でお楽しみください。

■狡兎死して走狗烹らる(こうとししてそうくにらる)

呉越間の抗争に終止符を打ち、勾践の覇業に大きく貢献した政治家・范蠡(はんれい)。ですが、越が絶頂期を迎えると程なくして国を去ってしまいます。理由を尋ねる同僚の文種(ぶんしょう)に対し、范蠡は「飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓はしまわれ、狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまう)」という手紙を送ったそうです。この文面の後半部分が広く知られるようになり、やがて「利用価値のある間はこき使われるが、無用となると捨てられてしまうこと」を表す故事成語となりました。この手紙を送った後、范蠡は斉の国に渡って商人として成功をおさめたそうです。

■牛耳を執る(ぎゅうじをとる)

この時代、諸侯が一堂に会して議論を交わしたり同盟を結んだりする際、牛の左耳を切り取って順番に血を啜りあうというしきたりがあったそうです。正式な作法としては、まず最も位の低い者が牛の耳を切り落として、一同の盟主がその血を啜る。続いて、各諸侯が順に血を啜り、盟約を誓い合うといったもので、これが転じて"牛耳る"という故事成語になり、「団体や集団内でリーダーシップをとったり、主導権を握る」といった意味を有するようになりました。ちなみに呉王・夫差は、自分の力を誇示するため大軍勢を率いて会議に出席しましたが、その隙に本国を越に攻め込まれてしまい、国家衰退のきっかけを作ってしまいました。

■呉越同舟(ごえつどうしゅう)

呉王・闔閭に仕えた将軍・孫武(そんぶ)が残した兵法書「孫子」に記された故事成語。呉と越は、長年に渡って抗争を続ける敵対国であり、それぞれの国に住む平民同士もまた、憎み合う間柄でした。ですが孫武は、そんな仲の悪い者同士でも、同じ船に乗り合わせているときに嵐に遭遇したなら、きっと協力し合ってその危機から脱出するはずだと説いたそうです。そこから「仲の悪い者同士が、同じ目的の為に一時的に協力し合う」という意味に転じ、この故事成語が作り出されました。時は降り、戦国時代中期に活躍した斉の国の軍人・孫臏(そんぴん)は、孫武の子孫と言われていて、「孫臏兵法」と呼ばれる書物も残しています。

こうして見てみると、どの故事成語も人と人との交わりや、国家間の大規模な戦争があったからこそ、生み出されたモノであることが分かります。激動の時代に必死に生きた人々が残したモノだからこそ、現代でも使える、胸を打つような言葉に成り得たのかもしれませんね。「復讐の春秋 ―臥薪嘗胆―」では、これまで書籍でしか知ることの出来なかった"臥薪嘗胆"という故事成語の、完成に至るまでの経緯を映像で楽しむことが出来ます。いくつものドラマが重なり合って、故事成語が出来上がる過程を追ってみるのも、中華歴史ドラマの一つの楽しみ方と言えるでしょう。

第13回 「歴史時代書房 時代屋」の女将が語る 中華歴史ドラマの魅力とは?

文:中国エトセトラ編集部

1:熱いトークを展開する「時代屋」女将・宮本みゆきさん

2:「歴史時代書房 時代屋」 

3:店内には、歴史関係の書籍やグッズがどっさり



4:中華歴史ドラマ列伝シリーズの専門コーナーもご用意

5:「三国志」をはじめとしたグッズも多数展示&販売中

6:『大秦帝国』DVD-BOXを手にする宮本さん

7:宮本さんのお気に入り武将・孝公

現在公開中の『大秦帝国』をはじめ『-大明帝国- 朱元璋』や『復讐の春秋 ‐臥薪嘗胆-』(第1シーズン、7月3日リリース)など、注目作が続々登場する中華歴史ドラマ列伝シリーズ。 今回はその魅力を「歴史時代書房 時代屋」の女将・宮本みゆきさんに語っていただきました。

映像で中華歴史を楽しむ醍醐味を、時代屋・宮本さんがバッチリご紹介!

編集部(以下:編):さっそくですが、宮本さんが中国歴史モノにハマッたきっかけは何だったのでしょうか?

宮本さん(以下:宮):よく「三国志」で興味を持って、だんだんと中国史にハマっていくパターンは聞きますけど、私の場合は中学で習った「項羽と劉邦」の漢詩がきっかけです。はじめて読んだ時にすごく興奮したんです! このエピソードをもとに同人誌を作ったりもしたんですけど、友達からはかなりダメ出しを受けましたね(笑)。

編:宮本さんのオススメの時代や、イチオシ武将がいたら教えてください。

宮:「項羽と劉邦」で歴史にハマって、そこから遡るように春秋・戦国時代を知ったので、この時代が一番好きです。ちょうど「史記」で描かれている時代ですよね。武将だと劉邦がいいですね~。何回負けても這い上がって、最後には項羽を打ち破って天下を取る姿がカッコイイ! それと、劉邦の奥さんの呂雉にも憧れます。"中国三大悪女"の一人として知られていますが、女性ながらに天下を取っていますからね。きっと精神的にも強い人だったのだと。混迷する時代には、女性のズバッとした決断力が必要な時もあると思うんです。それが残酷な面だけクローズアップされたのでしょうね。私も、あんな風に偉くなりたいです(笑)

編:中華歴史ドラマ列伝にも春秋・戦国時代を舞台にした作品がありますが、ご覧になられていかがでしたか?

宮:『大秦帝国』を拝見したんですけど、古代中国の世界観がすごくリアルに再現されていてますね。戦闘シーンだけじゃなく人間ドラマもしっかりと描かれていて、次期君主の座を巡って孝公が葛藤するシーンには思わず見入ってしまいました。商鞅もカッコイイけど、私は孝公派です(笑)。ちなみに、歴史好きな方って「その人物が何を成し遂げたか」で、観る作品を選ぶことが多いんです。ただ「天下を取った」という事実だけじゃなく、「そこに辿り着くまでに、どういう道のりを歩んできたのか?」といった生き様に魅力を感じるんでしょうね。そういう意味では、この『大秦帝国』はすごく見応えのある作品です。

編:映像を通して中国の歴史に触れることについて、ご意見・ご感想を聞かせてください。

宮:純粋に、こういう映像作品が増えてうれしいです。やっぱり映像の影響力ってすごいですから。これまでは本を読んで、想像することしか出来なかった世界が視覚で楽しめるのは大きいですよ。それに、歴史に興味はあってもどこから入り込めばいいのか分からない初心者の方にとっても、良い入り口になりますしね。あとドラマや映画って、観たときの年齢や環境で、受け取り方が全然違ってきますよね。子供の頃に観た映画でも、大人になってから観かえしてみると新しい発見がたくさんあったりする。そういう見方が出来るのは、映像作品ならではの楽しみ方ですよね。特に歴史ドラマって何年経っても古びませんから、歴史ファンには是非オススメしたいコンテンツですね。

編:今後は、どういったテイストの歴史ドラマがヒットすると思われますか? 予想を聞かせてください。

宮:以前は「天下を統一した」とか「暴君を討ち取った」といった具合に、成功した人物が人気だったのですが、最近では「天下は取れなくても、自分なりの生き様を貫いた」武将がクローズアップされてきています。特に最近だと、良い人過ぎたために志半ばにして倒れる"悲劇のヒーロー"が、歴女の間でブームになっていますね。

編:これから中華歴史ドラマ列伝をご覧になるみなさんに一言お願いします。

宮:ここ数年の歴史ブームで広く認知されるようになったとはいえ、中国歴史モノといえば、まだまだ「三国志」が主流です。でも、それ以外の時代にも、すてきな武将が活躍するエピソードがまだまだあります。たくさんの人に中国史そのものに興味を持っていただいて、それらを楽しんでもらえるとうれしいです。


宮本さんが女将を務める「歴史時代書房 時代屋」は、時代小説や歴史書といった各種書籍をはじめ、DVD・ゲームに雑貨、さらに飲食店など、"歴史"をテーマにした商品を多数取り扱うエンターテインメント型書店。「中華歴史ドラマ列伝」で中国の歴史に親しみ、より詳しい情報を「時代屋」で探し出すといった具合に、両者を有効活用して歴史ドラマを存分に満喫してみてはいかがでしょう?


第12回:大改革の立役者・孝公&商鞅。君主と参謀の絆が歴史をおもしろくする!

文:中国エトセトラ編集部

1:『大秦帝国』

2:滅亡の危機に瀕した秦を立て直すため、広く人材を募集した孝公

3:法律の遵守を第一とする法家思想に基き、改革を実行した商鞅




4:強い絆で結ばれた孝公と商鞅。その友情は生涯続いた

5:功績のある者は身分を問わず取り立て、民衆の意識改善にも尽力

6:生産力の向上だけでなく、精強な兵士の育成にも余念がない

7:新法の数々は国中に浸透。結果、秦は強国へと発展を遂げた

8:「図解雑学 諸子百家」
(著:浅野裕一/ナツメ社) 
商鞅の学んだ法家思想をはじめ、儒家、墨家、道家といった中国古代思想について分かりやすく解説した一冊

9:「名軍師の知恵」
(PHP研究所)
諸葛亮や山本勘助といった著名な軍師たちの戦略から、現代社会を生き抜く術を導き出した解説書

現在わが国では、映画やドラマ、ゲーム、漫画、小説などを中心に、空前の歴史ドラマ・ブームが起こっています。なかでも『レッドクリフ』や『天地人』をはじめとした、軍師・参謀が活躍する作品に人気が集中している模様。その理由は、知略を駆使して戦う彼らの姿が、現代社会に生きる私たちにとって親しみやすい点にあると言えるでしょう。

ですが、いかに優れていたとしても参謀一人の力では、歴史に名を残す程の大偉業を遂げることは出来ません。彼らの意見を聞き入れてくれた主君との連携があったからこそ、成し遂げることが出来たのです。そこで今回は、『大秦帝国』で活躍する孝公(こうこう)と商鞅(しょうおう)主従を中心に、各時代の名君主&名参謀をご紹介していきたいと思います。

●孝公と商鞅  強い信頼により、中国統一へと繋がる改革を断行

春秋戦国時代。法家としても知られる商鞅は、強国"魏"に仕えていましたが、主君の横暴さに憤りを感じ出奔してしまいます。その頃、隣国"秦"では、25代君主・孝公が国政の建て直しをはかるため優秀な人材を探していました。秦に入国し、孝公への謁見を許された商鞅は、ここぞとばかりに国政の在り方について熱弁を振るいます。しかし、この時は話が難し過ぎたため理解してもらえませんでした。しかし、商鞅は諦めません。孝公に名君の資質があると見込んだ彼は、その後も幾度となく、分かりやすい内容で国家改革の必要性を説きました。その熱意に打たれ、ついに孝公も改革の断行に踏み切ることを決意します。しかし、新しく制定された法律はどれも厳しい内容のものばかりで、誰も守ろうとはしませんでした。けれども孝公が、功績を成した者は身分に関係なく賞賛し、罪を犯した者は王族であっても罰するという厳格な姿勢をとったため、新法は徐々に広まっていきます。その結果、秦はわずか数十年で国力を回復し、強国に生まれ変わることに成功したのです。これは「法による統治のもと"富国強兵"を目指す」という2人の目標が一致したからこそ、成し遂げることの出来た偉業と言えるでしょう。

●劉備と諸葛亮  深い人徳のもと、研ぎ澄まされた軍略を発揮

後漢末期。若い頃より"臥龍"(=いずれ大物となる人物)と称されていた諸葛亮は、仁君として知られる劉備より"三顧の礼"をもって軍師に迎え入れられます。しかしこの頃の劉備軍は、拠点となる領地すら持たない弱小勢力。聡明な諸葛亮がそれを承知で従軍したのは、劉備の人柄によるところが大きいと言えます。「自身の利益よりも、受けた恩や民衆の命を第一に考える」という行動原理や、一介の隠者でしかない自分にまで礼を尽くしてくれたその人徳の深さに心を打たれたのでしょう。実際、諸葛亮の加盟後も、10万人もの民衆を引き連れての逃亡戦(=長坂の戦い)など、劉備の性格ゆえに困難を極めた戦いは数多く続きました。しかしそれ故に彼の軍略も研ぎ澄まされ、名参謀として後世に名を残すほどの活躍が果たせたとも言えるのではないでしょうか。

●武王と呂尚  先君の死後も続いた、師弟のような関係

殷朝末期。小説「封神演義」の主人公・太公望のモデルにもなった呂尚(りょしょう)は、チベット系の部族・羌族(別名:タングート)の末裔であると言われています。悪政の限りを尽くす殷に強い反感を抱いていた呂尚は、これを打ち倒そうとする為政者が現れることを信じ、数々の策を考えていました。そして、民衆のために殷を滅ぼそうと考える名君・文王と出会い、その軍師に迎え入れられます。しかし、高齢であった文王は、その後間もなく他界。跡を継いだ息子の武王は呂尚を師と仰ぎ、その教えに従って国力の強化に着手します。また呂尚も血気に逸る王を諌めながら、民衆の全てが新王朝の樹立をもとめるタイミングを見計らいます。そして好機が到来するや進言し、王は行軍を開始。勢いに乗る武王の軍は殷を攻め滅ぼし、ついに周王朝を打ち立てるのでした。

●武田信玄と山本勘助  持てる知識の全てを用いて恩義に報いる

戦国時代。山本勘助は、若い頃から全国を旅して回り、諸国の情勢や剣術、築城術、さらには軍略といったさまざまな知識を身に付けていきます。やがて仕官を求めるようになるものの、隻眼の上に足が不自由、おまけに容貌も醜い彼を、どこの大名も取り立てようとはしませんでした。そんな中、唯一その才能を見抜き召抱えてくれたのが武田信玄でした。蔑まれ続けてきた自分を迎え入れてくれた主君に報いるため、勘助はありとあらゆる軍略を駆使し、武田家の領土拡大に努めます。知略を用いて隣国・信濃を支配下に組み込んだり要所ごとに堅固な城を建てたりと、その活躍ぶりは枚挙にいとまがありません。また、戦場においても大いに活躍した彼でしたが、1561年の川中島の戦いの際、信玄を守るべく奮戦し、壮絶な討ち死にを遂げてしまいます。

●上杉景勝と直江兼続  生涯続いた、幼少時よりの兄弟の如き絆

戦国時代末期。名将・上杉謙信の養子となった景勝の小姓として、樋口与六(後の直江兼続)はわずか4歳にして出仕します。幼い頃から共に育った2人はまるで兄弟のように仲が良く、気難しいことで知られる景勝も兼続にだけは腹を割って話したといいます。また兼続も、そんな主君の期待に応えようと献身的な働きを見せます。謙信没後の"御館の乱"と呼ばれる家督争いでは、常に景勝をサポートしその勝利に大きく貢献。その後も織田信長の軍勢と対峙したり内乱の鎮圧に従事したりと、上杉家の内政・外交を一手に担いこなしていきます。景勝もまた、名門・直江家を継がせ与板城主に任命するなど、兼続の働きぶりを大いに賞賛します。やがて、名実共に№2の地位に就いた兼続は、新田開発や商業の発展にも取り組み、国の繁栄のためにその生涯を尽くしました。


こうして照らし合わせてみると、一括りに"君主と参謀"と言っても、それぞれの関係性には微妙な違いがあることがよく分かります。師弟のような関係から、恩に報いるための忠節、さらには兄弟の如き友情など実にさまざまで、どの主従にもおもしろいエピソードがたっぷりあります。それぞれの生き様を調べてみて、現代を生き抜くための知恵を学んでみるのもおもしろそうですね!

第11回:中国統一の覇者・始皇帝。そのバックボーン・秦王朝の歩みを大検証

文:中国エトセトラ編集部

1:「始皇帝 史上はじめて中国を統一した男」
(著:咲村観/PHP研究所)
波乱の人生を歩んだ始皇帝の生涯を描いた歴史ドラマ

2:「中国先秦史の研究」
(著:吉本道雅/京都大学学術出版会)
秦王朝の盛衰を、周~春秋戦国期の中国全土の実態と共に検証

3:「商子(しょうし)」
(著:清水潔/明徳出版社)
孝公を支え、大改革を成功に導いた商鞅の法家思想をまとめた一冊




4:『大秦帝国』

5:商鞅(左)と孝公(右)。この2人が秦に大改革をもたらす

6:始皇帝より数えて6代前の先祖に当たる孝公

7:法家思想に基き、強固な統治体制を布いた商鞅

中国史上、初の統一国家である"秦"といえば、万里の長城などの文化遺産を建築し、数々の偉業を達成した始皇帝の存在がクローズアップされがち。ですが、私たちが知っているのは、意外と始皇帝が即位して以降の功績ばかりで、秦という国家の全土統一までの歩みや、統一以前の中国の全貌についてはあまり知られていません。そこで今回は、秦という国の興りから始皇帝による全土統一までの流れを、検証していきたいと思います。


7つの国を統一。壮大なスケールの始皇帝は国家統治も斬新!

紀元前770年。当時の王朝であった周の権威は地に落ち、中国全土は諸国が覇権をめぐって争う、春秋・戦国時代に突入していました。何百年にも及ぶ戦乱の果て、大陸には楚(そ)・斉(さい)・燕(えん)・趙(ちょう)・魏(ぎ)・韓(かん)、それに秦を含めた"戦国の七雄"と呼ばれる7つの強国が並び立ち、各国はその存亡をかけて激しい戦いを繰り返していました。これだけ聞くと、日本の戦国時代を連想してしまいそうですが、中国の国土は日本の約25倍。それを単純に7国で割ったとしても、1国の大きさは日本の3倍以上に当たります。戦場の規模や動員される兵士の数もそれに比例して増えると考えたら、いかに大規模な戦争が繰り広げられていたのかが分かるでしょう。つまり、中国というひとつの国という概念はなく、7つの国が集まっていたという感じでしょうか。本当の意味でひとつの国として統一することに成功した始皇帝のすごさも改めて認識することが出来ます。

統一後、始皇帝はばらばらだった各国の統治に務めます。郡県制を採用し全国を36郡に分割、そして郡の下に県を設置しました。また、長さ、体積、重さの単位を統一(度量衝)、貨幣や車の幅を統一、そして文字(漢字)も統一し、合理的かつ革新的な統一国家を完成させるのです。その礎となる法治国家を完成させたのが、始皇帝の6代前の孝公と名参謀・商鞅。彼らの時代の秦国をご説明します。


始皇帝に中国統一を果たさせた、6代前の先祖・孝公の大改革

7国の中で最も西方に建国された異民族国家だったため、中原に興った他の国々からは野蛮と蔑まれ、文化の交流はあまり持っていなかった秦国。幸か不幸か、この境遇のおかげで秦には、他国の文化に影響されることなく独自の力で国家を繁栄させていこうという風土が生まれます。事実、9代・穆公(ぼくこう)の時代には、独自の政治により国の強化に着手し、領土拡大にも成功しています。しかし、そのシステムはまだ確立していなかったようで、穆公没後間もなく国力は一気に低下。さらに隣国・魏からの度重なる圧迫により、滅亡の危機にまで追いやられてしまいます。

国の強化に失敗し、いよいよ進退の窮まった秦ですが、25代・孝公(こうこう)の時代に、ある変革が起こります。この孝公とは、始皇帝から数えて6代前に当たる人物で、彼とその右腕として活躍した政治家・商鞅(しょうおう)が実行した大改革によって、秦はわずか20数年で滅亡の危機から立ち直り、戦国最強国に変貌を遂げることに成功したのです。

改革の内容については、中華歴史ドラマ列伝『大秦帝国』の中で詳しく描かれていますが、主だった新法をいくつか紹介すると、まず、五戸を一組と制定して、民衆間で互いの監視を義務付けさせた「什五制(じゅうごせい)」が挙げられます。また、父子兄弟を分家させ、強制的に戸数を増やし生産力の向上を計る「分異法」や、「阡陌制(せんぱくせい)」と呼ばれる土地の区画整理なども、この時代に施行された新法に含まれています。

改革の成功により国力の強化に成功した秦は、勢いに乗り他国への侵攻を開始し始めます。その軍事力を恐れた諸国は、連合軍を結成しこれに対抗するものの、秦の勢いを止めることは出来ません。こうして孝公の代からの数々の政策や軍事力、生産力が次世代へと引き継がれていき、紀元前221年、31代となる始皇帝はついに中国全土の統一を果たしたのです。


孝公・商鞅から始皇帝へ。受け継がれた財産

始皇帝による統一後も、秦の政治システムは孝公の時代に編み出されたものが改良を加えながら使われ続けました。では実際に、それらはどのような形に昇華していったのか、何点か例に挙げて詳しく見てみましょう。

●度量衡・文字・貨幣の統一

孝公以前の時代では、手幅や歩幅がモノを測る基準とされていた。しかしこれでは、物事の測量時に正確な数値を知ることが出来なかった為、長さを計る基準を"度"、体積は"量"、そして重さは"衡"と定め、数値を測るための単位"度量衡"が制定された。これにより土地ごとの生産高や商品の流通が正確に把握できるようになり、秦の経済は安定した。始皇帝はこれに加え、情報の伝達やモノの流通をよりスムーズに行えるよう、支配地域ごとの文字や貨幣の統一も実施した。これによって、中国全土の経済状況は飛躍的に向上することとなった。

●郡県制

通常、支配地域が広がれば広がるほど監視の目は行き届かなくなるもので、その結果、地方で反乱が起こり国家が転覆してしまうという事例が、春秋・戦国時代には頻繁に起こっていた。これを危惧して、孝公の時代には各地域ごとに"県"と呼ばれる朝廷直属の監視施設が設置された。始皇帝はこれを発展させ、"県"の上にさらに"郡"という施設を置き、二重体制で全支配地域を監視させた。こうすることで反乱の目が防止されると共に、納税の際に不正が行なわれることもなくなった。

●法による統治

先秦時代の中国では、国同士の大規模な戦争が絶え間なく続いていて、新しい法律が布かれても二転三転するのは当たり前だった。民衆が法律に従わなくなる事態を懸念した孝公らは一計を案じ、農業や戦闘で功を成した者には、賞金や爵位を授与したり、税を免除するなどして大いにもてなした。また法を守らない者は、例え王族であっても厳しく罰したので、秦の民衆は法律の公正さを信じるようになり、新法の数々を遵守するようになった。この教えが国内に徹底して行き渡ったおかげで、始皇帝は大規模な遠征や土木工事など、多くの民衆を動員しなければならない大事業に取り掛かることが出来た。


こうして時代の流れを追ってみると、始皇帝だけでなく、孝公や商鞅らをはじめとした先秦時代の人々の尽力があったからこそ、秦は全土統一という大偉業を遂げることが出来たということがよく分かります。『大秦帝国』では、並々ならぬ苦労の末、改革を成功に導いた孝公・商鞅の苦闘が描かれています。華々しい始皇帝の活躍だけでなく、国家の繁栄を目指し活動を続けた彼らの生き様は、混迷の現代社会に生きる私たちにとっても良いお手本になるのではないでしょうか。


第10回 武器が分かれば歴史が読める!? 中国武器の真実を徹底追究!!

文:中国エトセトラ編集部

1:小雨のパラつく中、秋葉原の街に到着。無事に武器屋に到着できるか!?

2:若干迷ったものの何とか辿り着けました。それでは早速お邪魔してみましょう

3:(有)ヴァイスブラウレジデンツ直営店 武器屋 http://www.wbr.co.jp/index.htm



4:経営責任者の磯野圭作氏。シャイな方なので、ひこにゃん扇子で顔を隠しての登場

5:蝙蝠剣(こうもりけん)。秦の時代の刀剣。鍔に蝙蝠の装飾が施されている

6:「大秦帝国」の1シーン。兵士たちが携えているのが、対戦車用の武器・戈

7:中国刀(左)と日本刀(右)。中国刀の方が数倍重く、振り回すには相当の鍛錬が必要かも

現在DVD-BOXが発売中の「朱元璋」や「大秦帝国」など、話題作がめじろ押しの中華歴史ドラマ列伝シリーズ。数多の英雄や魅惑のヒロインらが活躍する本シリーズだが、その見どころのひとつは、何と言っても大軍勢が入り乱れて展開する大迫力の戦闘シーン! 登場人物たちが携える武器や防具の数々も、一昔前の歴史ドラマではまるで京劇のような、見栄えだけで現実味のない装飾品が使用されていましたが、近年では史実に基づいたよりリアルな武器や防具が使用されるようになっています。

そこで、中国の武器についてもっと詳しく知るべく、秋葉原の武器専門店・武器屋さんに取材を敢行! 武器屋の磯野圭作氏より貴重な情報の数々を教えていただきました。


■中国武器に関する疑問の数々を、武器屋・磯野氏がズバッと解決!

編集部(以下:編):お世話になります。早速ですが、磯野さんが「武器屋」を始められたきっかけは何だったのでしょうか?

磯野氏(以下:磯):大学時代から、ずっと軍事関係の研究をしていたんです。その時、調べれば調べるほど、武器に関するデータが不足していることに気付きまして。研究の為にいろんな武具を集めたかったんですけど、費用もかかるじゃないですか。そこで、集めた武器で商売をすれば研究費も賄えるんじゃないかと思いついて、本店の開業を決めたんです。

編:(店内を見渡しながら)西洋、東洋を問わず、たくさんの武器を扱っていらっしゃるなか、意外と中国製の武器だけ数が少ないように思うのですが...。

磯:実はですね、市場に出回っている数自体が少ないんですよ。日本の刀や西洋の武具はマンガやゲームの影響もあって、いろんな種類のモノが出回っています。けれども中国というと、素手で戦うカンフー映画のイメージが強いじゃないですか。なので"中国の武器"という概念が、日本ではあまり定着していないのが原因です。実際のところ需要はあるんですけど、そのほとんどが太極拳の練習に使うような、競技用の武器や防具ばかりですね。

さらに本場中国では、資料として保存されている武器や防具が他の国に比べて圧倒的に少ないんですよ。だからレプリカを作成しようにも元となる資料がほとんどないので、バリエーションに富んだ武器が作りにくいんです。

編:けれども映画やドラマには、さまざまな武器が出てくるように思いますが。

磯:それはほとんどが、清の時代に作られたもののレプリカなんですよ。清朝は歴史的にも現代に近いし、比較的たくさんの武具が保存されているので、映画の小道具や衣装を作る際は基本的なデザインとして、よく流用されるんですね。

編:ちなみに「三国志」に出てくる青龍偃月刀や蛇矛といった武器は、いつの時代に作られたモノなんですか?

磯:関羽や張飛といった英雄たちが活躍した後漢の頃には、あんなにたいそうな武器は存在しなかったといわれています。実際のところ、青龍偃月刀は宋の時代、蛇矛は明の時代にそれぞれ開発された武器だそうです。「三国志演義」自体が、史実より1000年以上も経った明の時代に書かれた小説なので、その当時使用されていた武具の中から作者の羅貫中(らかんちゅう)が、登場人物らに相応しい武器をチョイスして勝手に持たせてしまったのが、いつの間にか定着してしまったんです。

編:そうなんですか!? 他にも、武器に関するおもしろい話はありませんか?

磯:それじゃあ、中国の武器開発の歴史についてザックリと話しましょうか。まず「大秦帝国」の舞台である春秋戦国時代は、軍隊の主戦力は戦車でした。で、それを倒す為に開発されたのが、(「大秦帝国」のポスターを指差しながら)この兵士たちが手にしている戈(か)という武器なんです。これは先端が鎌のような形状になっていて、戦車に乗っている敵に引っ掛けて転落させたり、直接斬りつけたりするのに有効でした。けれども、戈が活躍した時代はそんなに長くは続きませんでした。間もなく戦車に取って代わり騎兵隊が登場するんです。あまりにも早く動き回る上、近づけば槍で、離れれば弓で攻めてくる騎兵に対し、近づかなければ真価を発揮しない戈では歯が立たず、ほどなくして戦場から姿を消してしまうんです。戦術の進化とともに武器の盛衰もあるわけです。

編:それからは騎兵隊が戦場の主役となったんですね。

磯:そうです。以後、その流れは2000年近く続いて、他国では銃火器が主戦力となっていた清朝の末期まで、中国では騎兵隊が主力として活躍していました。実際のところ、明の時代には西洋から鉄砲の技術が導入され、40000丁もの銃が購入されたとの記録もあるんです。けれども、当時の銃は性能がいまいちで、一発撃つのに手間がかかる上に射程距離も50m程しかありませんでした。当時の軍人たちは「それぐらいの距離なら騎兵で一気に攻めかかれば問題ない」と考えたんでしょうね。結局それが、中国の銃器開発を大幅に遅らせる原因となってしまったようです。

編:先ほどご説明いただいた戈を含めて、中華歴史ドラマ列伝シリーズに登場する武器の出来栄えはいかがでしょうか? 作品そのものの感想なども聞かせていただけるとうれしいです。

磯:「大秦帝国」の試写を観させてもらいましたが、こんなに壮大なスケールの作品をよくぞ撮りあげたッ!って感じですね(笑)。この時代って日本ではまだまだマイナーだけれども、本当におもしろいエピソードがいっぱいあるんですよ。それを取り上げて映像化してくれたことがうれしいです。それに武器や防具もしっかりと作り込まれていて、実物と比べても見劣りしない出来ですね。よく調べてあるな~と感心しながら拝見しました。

歴史ドラマを描く時って、「史実をどこまでリアルに再現できるか」というのが、大きなポイントになると思います。それを逸脱してしまったら、ただの空想物語になってしまいますからね。この作品からは、武器や防具などの装飾品にまで気を配って、丁寧に物語を作り上げていこうという強い気持ちが伝わってきました。


"武器"にクローズアップして中国の歴史を追っていくと、「新しい武器や量産向けの武器が開発されるのは戦争があった時代。逆に、武具の装飾に細部にまでこだわり出すのは戦争のない平和な時代」といった具合に、武器開発の流れと歴史が深く関わりあっていることがよく分かります。このように新しい視点から物語を追っていくことで、単にドラマとしてだけでなく、中国の歴史そのものを理解し楽しむことも出来るようになります。


是非みなさんも、独自の視点から中華歴史ドラマシリーズを楽しんでみてください!


第9回 明の創始者・朱元璋を世界の英雄と徹底比較!!

文:中国エトセトラ編集部

1:「大明帝国 朱元璋」

2:紅巾軍の一員として戦いに明け暮れる朱元璋。精悍な顔つきが勇ましい

3:砂塵舞う荒野にて、何十万もの大軍勢が繰り広げる戦闘シーンは大迫力!



4:若い頃より軍師として朱元璋(左)を支え続けた李善長(りぜんちょう/右)

5:妻・馬氏(ばし)を深く愛する朱元璋。家族への愛がやがて悲劇を生むことに…

6:「中国の群雄(7)興国の皇帝」
(著:尾崎秀樹・南條範夫・若松寛・丸山松幸/講談社刊)
 朱元璋ほか、群雄興亡の時代を切り抜けた英傑たちの決断と戦略を記した紹介本

7:「超巨人・明の太祖朱元璋 運命をも変えた万能の指導者」
(著:堺屋太一/講談社文庫刊)
朱元璋の思想と行動から、現代にも通じる成功の秘訣を導き出した一冊

貧しい農民から身を起こし、一代で明王朝を樹立した英雄・朱元璋(しゅげんしょう)。そんな彼の生涯を描いた「大明帝国 朱元璋 DVD-BOX I(5枚組)」(DVD-BOX IIは5/6、BOX IIIは6/3発売予定)が、中華歴史ドラマ列伝シリーズの最新作として発売されました。作中では「レッドクリフ」の趙雲役で知られる胡軍(フー・ジュン)が朱元璋を魅力たっぷりに演じているのも魅力のひとつ。

で、朱元璋ですが、日本ではまだまだ認知度が低いものの、当然、中国本国では超メジャーな英雄です。また、貧困の中から生まれ、皇帝にまで上り詰めた成功者として世界的にも有名な人物です。では実際、彼はどういった足跡を辿り中国統一を成し遂げたのでしょうか? 今回は、彼同様に覇業を成し得た歴史上の人物たちも併せて紹介するとともに、それぞれの類似点や朱元璋の勝っているポイントなどを探っていきましょう。


朱元璋(1328~1398) 明王朝の初代皇帝


元王朝末期。貧農の家に生まれた朱元璋は、相次ぐ飢饉や疫病により家族を次々と失っていきます。一時、皇覚寺という寺に身を寄せ僧となるものの、食べることにすら困窮する日々は変わらず。その後、数年に渡る諸国遍歴を経て反乱組織・紅巾軍に加わった彼は、指導者である郭子興(かくしこう)のもとでメキメキと頭角を現していきます。郭子興の死後、その息子である郭天叙(かくてんじょ)との後継者争いに勝利すると、応天府(現在の南京)を拠点に、当時最も肥沃な土地と言われていた江南地方の統一に向け乗り出します。 "貧民の味方"というイメージを打ち出した彼は、瞬く間に多くの民衆から支持を得るようになり、湖北・江西を支配し大漢国を打ち立てた陳友諒(ちんゆうりょう)や、江東に強大な勢力を誇った張士誠(ちょうしせい)らを次々と打ち破っていきます。そして江南を支配下に置いた1368年、明王朝を樹立し洪武帝(こうぶてい)と名乗るようになります。続いて、すっかり国力の衰えた元王朝を戦わずしてモンゴルへと撤退させることにも成功し、ついに中国の統一を果たしたのです。しかし成功後は疑心暗鬼に陥り、功臣、官僚らを次々と粛清してしまいます。天使と悪魔、その2面性をもった世紀の巨人とも言える人物です。


豊臣秀吉(1537~1598) 日本統一を成した戦国武将


安土桃山時代。百姓の子として生まれた木下藤吉郎(後の秀吉)は、諸国放浪の後、織田信長に仕えるようになります。そこで頭角を現し、織田軍の中核を成すほど出世。1582年に本能寺の変で信長が急死してしまいますが、その後"信長の後継者"という地位を手に入れることに成功し、敵対勢力を駆逐しながら1590年、ついに天下を統一しました。

■ここがそっくり!

貧農の家に生まれながらも身を起こし、主人に気に入られて出世していく人生の歩み方。また、身内を大切に思うあまり、有能な家臣を次々と粛清して政治に混迷をもたらしてしまった晩年の過ごし方も似ています。

■ここが勝っている!

秀吉同様、統一を果たすわけですが、中国の国土は日本の約25倍もの。また、主に仕え始めてから天下統一までにかかった期間も、秀吉が36年かかったのに対し、朱元璋は20年で成し遂げています。スゴイ!


チンギス・ハン(1162頃~1227) モンゴル帝国の創設者


11世紀後半。モンゴル高原・北東部を支配する有力部族の家系に生まれたテムジン(後のチンギス・ハン)は、部族間の抗争により捕えられ、長らく捕虜としての生活を強いられました。辛うじて脱出に成功した彼は、かつての臣下や他の部族と同盟を結んで高原の統一に乗り出します。苦労の末1206年に統一を成し遂げると、その地にモンゴル帝国を建国。より広大な領土を求め、その後も遠征を繰り広げていきました。

■ここがそっくり!

かつての仲間と殺し合いを演じなければならなかった悲劇性。朱元璋は恩人の息子・郭天叙と、チンギス・ハンは立ち上げ時から共に戦ってきた友人・ジャムカと、それぞれ骨肉の争いを繰り広げました。

■ここが勝っている!

モンゴル帝国は、チンギス・ハン存命の折から絶えず反乱が起こっていた。しかし明は大きな内乱もなく、朱元璋の独裁政治ではあったものの統治は国中に行き届いていました。彼の影響力、政治的手腕の強大さを物語っていますね。


ナポレオン・ボナパルト(1769~1821) フランス第一帝政の皇帝


フランスが周辺を敵国に囲まれ危機的状態にあった18世紀後半、ナポレオンはコルシカ島の地主の家に生まれます。士官学校を卒業した彼は陸軍に入隊し、イギリス・スペイン艦隊の撃破や敵対同盟の中心国・オーストリアを降伏に追い込むなど、目まぐるしい活躍を見せます。やがて民衆から圧倒的な支持を得た彼は新政府の樹立に成功。1804年には皇帝に即位し、帝政を布いてフランスに絶頂期をもたらしました。

■ここがそっくり!

両者とも皇帝に即位し、権力を自分ひとりに集中させる独裁政権を布きました。一代で不安定な情勢にあった国家をまとめ上げ、周辺諸国にも強硬な態度で臨むにはやむをえない政策だったといえるでしょう。

■ここが勝っている!

王朝の存続期間。明王朝が276年間、朱元璋の後も17代に渡って栄えたのに対し、フランス第一帝政はナポレオンの敗戦を機に、わずか10年で崩壊してしまいました。国家としての完成度の高さが伺えます。


アレクサンドロス3世(紀元前356~紀元前323) 広大な帝国の統治者


紀元前4世紀。ギリシア北方のマケドニア王国の王子としてアレクサンドロス3世は生まれます。哲学者アリストテレスに師事し文武に秀でた彼は、紀元前338年に起こったギリシア軍との戦争で初陣を果たし、見事勝利を収めました。この後、諸国をまとめ上げギリシア連合を結成しその盟主の座に就きます。そしてエジプトから中央アジアに至るまでの広大な地域を支配下に置いていき、強大な帝国を築き上げました。

■ここがそっくり!

アレクサンドロスはエジプト遠征時、圧政を布くペルシア軍を倒したことで現地民から"支配からの解放者"と呼ばれ歓迎されました。朱元璋もまた"貧しい者の味方"として民衆に英雄視される存在でした。

■ここが勝っている!

マケドニアの王子として生まれ、連合軍の盟主という地位も父王より譲り受けたアレクサンドロスに対し、朱元璋は何も無い状態から自身の力だけで頂点に登りつめました。ゼロからのスタート。彼のサクセス・ストーリーに尊敬の念を抱く人が多いのもうなずけます。


今回ご紹介した5人の英雄は、生まれた時代や国、統治した領土の規模もバラバラですが、その足跡を辿るとそれぞれ似通った点がいくつも見えてきます。それでも朱元璋が類まれなる歴史的な人物をいうことがおわかりいただけたのではないでしょうか。言葉にすれば"稀代の成功者"ということになりますが、その過程には紆余曲折、様々な人生の苦悩が隠されています。全46話の「大明帝国 朱元璋」で彼の人生をじっくりと辿ることで、学び、考えさせられることも多いはず。ぜひ、鑑賞してみてください!


第8回 有名中華スポット巡り(関西編)

文:中国エトセトラ編集部

前回、好評を博した有名中華スポット巡り(関東編)。今回はその関西版として、選りすぐりのおもしろスポットを2箇所ご紹介したいと思います。新大阪駅をスタート地点に設定した乗り換え・運賃表も掲載しているので、関西在住の方だけでなく、東京や地方から遊びに行かれる方にもバッチリ活用してもらえる(ハズの)レポートです!

おすすめスポット其之一:神戸南京町

まずは新幹線にてJR新大阪駅に到着。そのままJR東海道本線(新快速)で三ノ宮駅を目指します。三宮駅で(普通)に乗り換え一駅隣りの元町駅で下車後、別名メリケンロードとも呼ばれる鯉川筋に沿って南に5分ほど歩きます。すると、右手に中華風の装飾が施された巨大な門・長安門(ちょうあんもん)が現れます。さらにその奥には、たくさんの露店と行きかう人々で溢れかえる中華街の街並みが広がっています。この区域こそ、日本三大チャイナタウンの一つ神戸南京町(こうべなんきんまち)。しかも幸運なことに我々が訪れたのは、中国における旧正月を祝うイベント・春節祭(しゅんせつさい)の真っ最中というタイミング! 通りを歩いてみると、さっそく獅子舞の演舞が出迎えてくれました。さらに奥に進んで中央広場に向かうと、四川地方の伝統芸能である"変臉(へんれん)"のステージが実施されていました。音楽に合わせて踊りながら一瞬で仮面を付け替える不思議な舞に客席は大喝采! 横浜中華街に比べると規模は若干小さくなりますが、その分、各種催し物の合間の密集度は濃く、露店でつまみ食いしながらも、横の露店のご馳走もチラチラ目に入り、露店ハシゴしてしまうこと請け合いでしょう。

おすすめスポット其之二:上海新天地

次の目的地は、大阪は日本橋に居を構えるチャイナモール。まずは元町駅に戻り、来た時と同じ手順で今度は大阪駅に向かいます。到着後、地下鉄梅田駅まで5分程歩き、御堂筋線でなんば駅を目指します。下車した後、4番出口より地上に上がり日本橋方面に向かって歩くこと約7分で、境筋に沿って建つレンガ調の建物・上海新天地(しゃんはいしんてんち)に辿り着きます。日本橋は東京で言うところの秋葉原に近い感じのスポット。メイド喫茶やアニメ・フィギュアショップが立ち並ぶ街並みの中、上海新天地の外観は異彩を放っていました。

店内に入って目の前に広がるのは免税店です。そのためか、アジア関連の人々、たぶん中国の方々がたくさんいらっしゃいます。なので、ある意味、異国風情を満喫できます。そして、2階には、莫大な量の中国書籍やDVD作品が陳列されている書店「中文書店」が出迎えてくれます。日本ではなかなかお目にかかれないコアな漫画やアイドル雑誌が数多く取り揃えられていて、芸能エンタメ事情を体感できるのでオススメです。さらに上の階に上がると、スーパー「中華食彩館」が広がっています。ピータン、上海蟹、アヒルの足(?)から、見たこと、聞いたことがないような香辛料がズラ~リと陳列されています。食品ひとつひとつの量も多く、また種類の豊富さも含めて、本場のスーパーもこんな感じなんだろうなって心浮かれてしまいました。その上のレストラン街も先ほどの免税店からのお客さんが流れてか、中国の人たちで満席状態。おしゃべり、笑い声も絶えず、レストランフロア全体が活気に満ちていました。こういう熱気って日本の食堂等からは感じないものなんですよね。といった塩梅で、今までいった他の中華スポット以上にネイティブな雰囲気が凝縮していた上海新天地。ぜひ、足を運んでみてください。


~神戸南京町とは?~


横浜中華街、長崎新地中華街と並ぶ日本三大中華街の一つ。"あずまや"と呼ばれる建物の建つ広場を中心に四方に通りが延び、それに沿うような形で100店舗を超す商店や料理屋が軒を連ねている。主なイベントは、旧暦の正月を祝う"春節祭"や、同じく旧暦の8月15日(日本におけるお盆)に秋の収穫を祝って行なわれる"中秋祭"など。


~上海新天地とは?~


全7階からなるショッピングモール。各階ごとに書籍・映像機器や食料品、免税品などを扱う店舗が入っていて、他所では滅多にお目にかかれない中国産の珍しい商品も数多く扱っている。またバイキング・レストランをはじめ、漢方マッサージやカラオケなどのブースも設けられており、全館を通して"中国"を堪能できる施設となっている。

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第7回 「末代皇妃」に登場する男装の麗人 "清"の王女・川島芳子にクローズアップ

文:中国エトセトラ編集部

1:「末代皇妃 ~紫禁城の落日~」

2:執拗に文繡(左)を付け狙う川島芳子(右)。命懸けの攻防は興奮!

3:皇族の血を引く芳子は“ラストエンペラー”溥儀(左)の親戚に当たる



4:日本軍に従事する芳子。「男装の麗人」の異名通りの凛々しい出で立ち

5:「清朝十四王女 川島芳子の生涯」
(著:林えり子/ウェッジ文庫刊)
歴史に翻弄された“一人の人間”川島芳子の数奇な運命が描かれている

6:「男装の麗人 川島芳子伝」
(著:上坂冬子/文春文庫刊)
大量の資料や親族の証言をもとに、川島芳子の素顔を明らかにしていく検証本

中華ドラマ列伝シリーズ大好評発売中「末代皇妃 ~紫禁城の落日~ DVD-BOX 」。清王朝滅亡後の中国を舞台に、"皇帝の側室"という身分を捨て、新しい人生を切り開くため邁進し続けた女性・文繡(ぶんしゅう)の波乱に満ちた半生を描いた歴史大作である本作は、魅力的な女性が多数登場する点も見どころの一つ。その中でも一際異彩を放つのが、事あるごとに文繡の命を付け狙う"男装の麗人"川島芳子(かわしまよしこ)という女性の存在です。

2008年の年末には、黒木メイサ、真矢みきらが演じて話題となったTVドラマ「男装の麗人~川島芳子の生涯~」(テレビ朝日系)が放映されるなど、川嶋芳子は日本とも関係性の深い女性。今回は、この川島芳子という人物がいったい何者で、どんな人生を歩んだのかを「末代皇妃~」本編では描かれていない部分も含めて紹介していきます。


清王朝の王女にしてスパイ 川島芳子に迫る!

1907年、川島芳子、本名・愛新覚羅顕シ(あいしんかくら けんし)は、清朝の皇族・粛親王(しゅくしんおう)の第14王女として生まれます。ですが、王朝はすでに衰退の真っ只中で、結局5年後には滅亡。その内乱から逃れて日本に渡った彼女は、陸軍通訳官・川島浪速(かわしまなにわ)の養女となり、以後、"川島芳子"と名乗るようになります。若い頃は、突如、頭を丸め男装を始めたり、大陸に渡って蒙古族の青年と結婚したり、上海の街で毎晩のように遊び回るなど、自由奔放な行動が目立ったようです。

そんな彼女も、陸軍少佐・田中隆吉(たなかりゅうきち)と出会ったことで人生に転機を迎えます。明晰な頭脳と優れた語学力、そして"清朝の王女"という肩書きが気に入られ、諜報部員としてスカウトされたのです。以後、彼女は大陸進出を狙う日本軍に協力する形で、スパイ活動に従事していくことになります。「末代皇妃 ~紫禁城の落日~」では、これ以降の川島芳子、つまりスパイとして活躍していた頃の彼女が登場する訳です。

理想国家建国の夢に破れ、無念のうちに散る

1931年、日本軍は"ラストエンペラー"愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)を満州国の皇帝に迎え入れるべく、列強諸国の監視下にあった天津の街より脱出させます。このとき芳子は、一人取り残された皇后・婉容(えんよう)の救出に成功、その後も数々の諜報活動を続けていきます。この頃の彼女を「末代皇妃 ~紫禁城の落日~」では、溥儀の正室である婉容には同情を、溥儀を見捨てようとする文繡へは激しい憎しみをぶつける人物として、実に印象的に描いています。これらの活躍ぶりから芳子は、世界的に有名な女スパイになぞらえ「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれるようになり、一躍、時の人となってゆきます。

満州国に"清王朝の再興"という夢を重ねていた芳子。しかし、侵略行為の陣頭指揮を執るうちに、満州国が日本の傀儡国家に過ぎなかったことに気付いていきます。次第に失望感を募らせ軍部に居場所を失っていき、やがて第2次世界大戦が終結すると、彼女は中国国民党政府に捕えられてしまいます。その罪は、国家反逆の罪に相当する漢奸罪(かんかんざい)。1948年、銃殺刑に処せられ波乱の人生に幕を降ろすのでした。


日中で割れる人物評

日本編

「東洋のマタ・ハリ」をはじめ「男装の麗人」「東洋のジャンヌ・ダルク」など様々な異名を持ち、当時の人々からは尊敬と憧れの対象として捉えられていました。また近年では、日本軍により満州国建国のプロパガンダとして利用された挙句、切り捨てられた悲劇の女性としての面がクローズアップされるようになり、映画・舞台のみならず、数多くの書籍にも取り上げられています。

中国編

清朝の王女でありながら日本軍の手先となって侵略行為の手助けをした"売国奴"としてのイメージが強く残っており、長年にわたり歴史を騒がせた悪女として認識されていたそうです。しかし最近では、日本軍に身を置きながらも、その非道な侵略に対し反対の姿勢をとり続けた人物として、再評価の動きも見られるようになってきているとのことです。


東洋のマタ・ハリ、男装の麗人

男装の麗人・川嶋芳子が断髪したのは、彼女が17歳の頃。その男装姿は新聞にも取り上げられるほど注目を集め、彼女を一目見ようと連日、ファンが押しかけてくるほどの人気だったとか。また、満州国時代には歌手としてレコードも発売され、あの李香蘭ら映画スターとも交流があるなど、軍に身を置きながらも"華"のある女性であったことは間違いないようです。 日本の映画では、昭和初期の伝説的な大女優・入江たか子(「満蒙建国の黎明」)、新東宝の看板女優だった高倉みゆき(「戦雲アジアの女王」)が、TVドラマでは前述した黒木メイサ、真矢ミキのほか、江角マキ子(「流転の王妃・最後の皇弟」)、菊川怜(「李香蘭」)が演じており、やはり川嶋芳子=美人のイメージが強いようです。「末代皇妃 ~紫禁城の落日~」のリー・ユイもキレ長の目が印象的なクールビューティなので要チェック! 本ドラマでは残念ながら敵役の役回りだが、川嶋芳子の数奇な運命を把握した上で鑑賞されると、「末代皇妃 ~紫禁城の落日~」の楽しみ方は2倍・3倍と膨らむかもしれませんね。

第6回 中華歴史ドラマ列伝で学べる 中国発祥の格言大紹介!

文:中国エトセトラ編集部

1:「シルクロード英雄伝」

2:「大敦煌<西夏来襲>」

3:後漢書:ごかんじょ
宋の時代、歴史家の范曄(はんよう)によって編纂。後漢王朝の歴史について記されている

4:碧巌集:へきがんしゅう
北宋時代、圜悟克勤(えんごこくごん)により編纂された仏教書。臨済宗において重宝されている

5:戦国策:せんごくさく
前漢の学者・劉向(りゅうきょう)が、戦国時代のさまざまな逸話を国別にまとめた書物

6:漢書:かんじょ
後漢時代、女性歴史家・班昭(はんしょう)らにより編纂された、前漢について記した歴史書

 「四面楚歌」「臥薪嘗胆」「傍若無人」「国士無双」...など、みなさんがご存知の故事・熟語は、結構、中国の歴史書の中からの言葉が多いです。当然、今回の中国歴史ドラマ列伝に登城する人物たちが生み出したものもあります。その例を挙げてみると、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という言葉は、後漢時代の武将・班超(はんちょう)が、敵の大軍と戦うことに怯えてしまった部下たちに向かい言い放った言葉が語源だったそうです。この班超という人物は「シルクロード英雄伝」に登場する"飛駝(フェイト)商隊"の創始者として、名前だけですが本編にも登場しています。 また、歴史大作「大敦煌」の第一部<西夏来襲>の舞台である北宋の時代には、数多くの書物が編纂されました。その中の一つ碧巌集(へきがんしゅう)には、当時盛んだった禅宗の僧侶・陳尊者(ちんとうしゃ)が残した「竜頭蛇尾」という言葉が記されています。

 今回は、これらの時代に作られ、現在の日本でも広く使われている有名な格言を何点かピックアップし、ご紹介していきたいと思います。


「虎穴に入らずんば虎子を得ず」(後漢書)


後漢の武将・班超(はんちょう)が残した言葉。虎の子供(貴重なものの例え)を手に入れるには、虎の住む穴に入るような危険を冒さねばならないという例えから、「大きな成果をあげるには、思い切った行動をとらなければいけない」という意味に転じた。この言葉により班超の部下たちは士気を高め、寡兵ながら敵の大軍を見事に打ち負かしたという。

「竜頭蛇尾」(碧巌集)

北宋の禅僧・陳尊者(ちんとうしゃ)が、ある僧と禅問答をした時のこと。相手は最初こそ威勢が良かったものの、徐々に口数が減ってゆき、最後には黙り込んでしまった。これを見た彼が「自分を竜のように強く見せているが、尻尾は蛇のような男だ」と言ったことから「勢いがよいのは最初だけで、最後にはなくなってしまう」ことの例えとなった。

「鶏口牛後」(戦国策)

戦国時代。強大な秦(しん)を前に、服従か抗戦かで迷っていた韓(かん)の王に向かって、蘇秦(そしん)という遊説家が説いた言葉。「大きなものに従って軽んじられるよりも、小さな組織でも長となって重んじられる方が良い」という意味。この言葉により、韓は徹底抗戦を決断。他国と同盟を結び、秦に対抗したと言う。

「百聞は一見に如かず」(漢書)

前漢の将軍・趙充国(ちょうじゅうこく)が、皇帝より匈奴討伐を命じられた時に答えた言葉。「あれこれ憶測で計画を企てるよりも、実際に現地を見て作戦を立てた方が確実です」と言ったことから「人から何度も聞くより、一度自分の目で見る方が確かであり、物事がよく分かる」という意味に転じた。

こうして読み返してみると、どの言葉も現在のビジネス用語として使えるものばかりで驚かされてしまいます。この他にも、おもしろい諺や四字熟語は、まだまだたくさんあるので、また機会をみてご紹介していきたいと思います。

第5回 有名中華スポット巡り(関東編)  其之四 立川中華街

文:中国エトセトラ編集部

1:中華風の明るいフロア内には、たくさんの中華料理店が建ち並ぶ

2:エリアの一角で関帝廟を再現。書物を読んでいる姿は珍しいかも

3:ブースでは風水占い以外に、四柱推命などの開運鑑定もしてくれる



4: 通路沿いに、兵馬俑((へいばよう)を模した人形の展示エリアを発見

5:名物“梅蘭焼きそば”。パリパリの表面を割ると熱々の餡がトロ~リ


オススメスポット 其之四 立川中華街

次もグルメスポットへ向かいます。まずは元町・中華街駅に戻り、みなとみらい線に乗車して武蔵小杉駅まで移動。そこでJR南武線に乗り換え、立川駅を目指す。下車後、南口に向かうと、駅に隣接しているグランデュオ立川に到着。早速7階に向かってみると、夕飯時ということもありフロア内はすごい混み様。その理由は、このフロアで展開されている立川中華街では北京料理、広東料理、四川料理といった具合に、それぞれの地域の料理を扱った中華料理店がいくつも軒を連ねていて、ここに来るだけで中国全土の料理を一気に味わうことが出来るからです。ってそんなに回れないですけどね。

横浜中華街での食べ歩きでずに乗りすぎたのか、お腹はあまりすいていませんでしたが、"梅蘭焼きそば"にはビビっと反応してしまいました。これがまた美味! パリパリに焼き上げた麺と中の熱々の餡が見事にマッチした絶妙の味わいは、一度食べたら癖になりそう。 また施設内には、いたるところに朱雀(すざく)や白虎(びゃっこ)などの霊獣が飾られてました。で、ここでも関羽の座像が設置されていました。商売の神様として、本当に人気のある武将なんですね。

こうして中華スポット巡りは無事終了。超駆け足で回ったので、かなり無理が生じましたが、みなさんはゆっくりとグルメや観光をお楽しみください。


立川中華街とは...

JR立川駅に隣接する商業施設・グランデュオ立川の7階で展開される、中国をイメージしたテーマパーク的なレストラン街。フロア内では15店もの中華料理店が営業しており、広東、上海、四川など、各店舗ごとに専門的な料理を扱っている。また、いたるところに風水思想を取り入れた装飾が施されており、中でも占いブースは恋愛運から仕事、家相まで幅広く見てくれるということで人気を博している。ちなみに同フロア内の雑貨店でも、さまざまな開運グッズも扱っている。

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第4回 有名中華スポット巡り(関東編)  其之三 横浜中華街

文:中国エトセトラ編集部

1:中華街のシンボルである牌楼。写真はその内の一つ善隣門(ぜんりんもん)

2:関帝廟近くの店舗で、思わず関羽像を購入。商売繁盛のお守りだそうです、

3:夕日に映える関帝廟。門構えからも荘厳な雰囲気が漂っています



4: 特大サイズの肉まんをゲット! じゅわっと溢れる肉汁がたまりません

5:公園内の東屋・會芳亭(かいほうてい)。夜には美しくライトアップされます


オススメスポット其之三 横浜中華街

次に目指すは、日本最大の中華スポット、横浜元町の中華街です。お台場海浜公園駅からゆりかもめに乗り、まずは新橋駅までUターン。続いてJR東海道本線で横浜駅を目指し、みなとみらい線に乗り換え元町・中華街駅で下車。そこから歩くこと約4分で、眼前に中国風の装飾が施された巨大な門・牌楼(ぱいろう)が現れます。

早速、牌楼をくぐって大通りに足を踏み入れると、そこにはさまざまな中華料理店がズラリと並んでいて、おいしそうな匂いを漂わせています。ホカホカの肉まんやゴマ団子、さらに揚げワンタンといった変わり種まで、片っ端からつまませていただきました(笑)。

ただ、中国エトセトラ編集部スタッフとして、目指すは当然、「三国志」で有名な関羽(かんう)を祀った関帝廟(かんていびょう)です! 本場中国でも"商売の神様"として信仰されているそうで、この日もたくさんの参拝者が訪れていました。私も本殿に上がり、関羽像をお参りさせていただきましたが、関羽像の黒き髯(美髯公とも呼ばれている)を見た瞬間、なにか武侠的な血のたぎりを感じてしまいました。さすが関羽! 今回はグルメと武侠魂を満喫した、約1時間半の滞在となりました。

横浜中華街とは...

安政5年(1859)、ペリー艦隊の来航に端を発する横浜港の開港に合わせて作られた外国人居留地。その一角で、中国人貿易商が中心となり開発を進めた地域が起源とされる。関羽を神格化した関聖帝君(かんせいていくん)や、航海、漁業を司る女神である媽祖(まそ)を祀った廟(びょう)をはじめ、牌楼と呼ばれる風水思想に基づいて建てられた十基の門など、エリア内には数々の名所が点在している。また多数の中華料理店が軒を連ねており、中国茶専門店などの珍しい店舗も営業している。

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第3回 有名中華スポット巡り(関東編) 其之二:台場小香港

文:中国エトセトラ編集部

1:施設内のレイアウトは、まさに在りし日の九龍城そのもの!

2:風水グッズが並ぶ中に、商業の神様としても有名な関羽像を発見

3:第3土曜・日曜は“おさるの日”。さまざまな芸が楽しめます



4:衣装を借りてプリクラに挑戦! 扇子などの小道具も充実してます

5:四川料理として有名な刀削麺。モチモチとした食感がたまらない!


オススメスポット 其之二 台場小香港

まずはJR御茶ノ水駅より、中央線で東京駅まで移動。山手線に乗り換え新橋駅に向かい、そこでゆりかもめに乗車してお台場海浜公園駅を目指します。下車後、徒歩2分でデックス東京ビーチに到着。エスカーレーターで6階まで上がると、そこには香港の街並みをそのまま再現したかような不思議スポット、台場小香港が展開しています。夜空を背景にド派手なネオンが煌々と立ち並ぶさまは、まさに異国情緒たっぷり! さらに運の良いことに、月に数回しか開かれない猿回しの演目も楽しむことが出来ました。7階に上がると、今度は打って変わって開放的な空間が広がります。内装も金や赤など、中国の宮廷を匂わせる色使いが施されていて下階とのギャップが楽しめます。 腹の虫が鳴きはじめ、フロア内の中華料理店に入った我々は刀削麺(とうしょうめん)を注文。刀削麺とは、煮立ったお湯に生地を刀で削りながら飛ばし入れる独特の調理方法が有名な麺料理の一種。端と中心部分で厚みの違う独特の食感に、スタッフ一同大満足するのでした。今回は、食事込みで約1時間の滞在となりました。

台場小香港とは...

お台場を代表するリゾート施設・デックス東京ビーチの6、7階に設けられた飲食商業スポット。各階には香港の活気のある雰囲気をイメージした装飾が施されていて、本当に中国にやって来たような気分が味わえる。また、良縁を結ぶ"姻縁石(いんえんせき)"や財運と繁栄をもたらす"五帝銭(ごていせん)"などの風水アイテムが、フロア内のいたるところに設置されているのも特徴。6階のプリクラコーナーでは、チャイナ服の貸し出しも無料で実施中。

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第2回 有名中華スポット巡り(関東編) 其之一湯島聖堂

文:中国エトセトラ編集部

1:道沿いに設置された案内板。御茶ノ水駅より徒歩3分で来られる距離

2:茂みの中から巨大な孔子像が出現。訪れていた外国人も喜んでました。

3:並んで立ってみると、4m50cmもあるその大きさに改めて驚かされます



4:大成殿は関東大震災で焼失したため、昭和10年(1935)に再建築されたもの

5:本堂の美術品は、一人200円で鑑賞可能。古代中国の雰囲気が味わおう


中国歴史モノのファンならば、誰しも一度は数多の英雄・豪傑たちが駆け抜けた広大な中国の大地を旅してみたいと思うはず。けれども、当然、海外ですし・・・・。ということでスケールは小さくなってしまいますが、日本国内(それも関東圏)の中国スポットをご紹介しましょう。 今回は、中国文化エトセトラ編集部チームが一日中国スポット巡りを敢行! 乗り換え・運賃なども盛り込んだ、"使える"レポートをお届けします!!

オススメスポット 其之一 湯島聖堂

スタートはJR新宿駅。JR御茶ノ水駅までは中央線で。御茶ノ水駅・聖橋口にて下車し、すぐ横の聖橋を渡っていると、右前方に木々に囲まれた湯島聖堂を発見。橋を渡りきってからすぐの目につく案内板に従って階段を下ると、そこには美しい庭園が広がっています。門をくぐりしばらく進むと、草木のかげから巨大な石像が出現! この像の人物こそ、古代中国を語る上では欠かせない儒教の始祖・孔子(こうし)。実はここ湯島聖堂は、日本でも有数の孔子廟(孔子を祀る霊廟)でもあるのです。それにしても、この像の大きさは圧倒的。湯島聖堂のものは世界最大規模の孔子像とのことで、その迫力をぜひ体感していただきたい!

さらに先へと進むと、本堂である大成殿(だいせいでん)がその姿を現します。堂内にはたくさんの美術品が展示されているとのことなので、さっそく拝見してみることに。儒教の聖人たちの姿が描かれた大壁画十六面と呼ばれる壁画や、四賢像と呼ばれる孔子の高弟たちの座像などが祀られていて、堂内は厳かな雰囲気に包まれていました。時間にして約20分で園内の見物は終了。

湯島聖堂とは?

元禄3年(1690)、五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)によって儒教の復興を目的に建てられた孔子廟、及び学問所を指します。"日本の学校教育発祥の地"としても知られ、江戸時代は幕府直轄学校として、明治以降も政府の教育・研究機関として活用され、その流れは現在の東京大学へと受け継がれています。また毎年、合格祈願にたくさんの受験生が訪れることでも有名です。ちなみに、構内に祀られている孔子像は、昭和50年(1975)に中華民国より寄贈されたものです。

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第1回「中国歴史物、日本人は既にハマってる!?」(漫画編)

文:中国エトセトラ編集部

1:「三国志」 孔明、曹操、関羽ら数多くの豪傑・名将・軍師らが活躍する中国歴史漫画の決定版。 潮出版社

2:「史記」 司馬遷による有名な歴史書をコミック化。横山光輝氏の代表作。 小学館

3:「墨攻」 非攻を是とする墨家(ぼっか)集団のエキスパート・革離の活躍を描く。 小学館



4:「東周英雄伝」
春秋戦国時代の英雄たちのエピソードをつづった一大叙事詩。
講談社BOOK倶楽部

5:「中華一番!」 中国全土を巻き込む奇想天外な料理対決を描いた冒険グルメ漫画。 講談社BOOK倶楽部

6:「蒼天の拳」 第六十二代北斗神拳伝承者・霞拳志郎と男たちとの友情と闘いを描く。 新潮社

やっぱり外せない!横山光輝「三国志」

映画『レッド・クリフ PART1』はTVCMで、「まさかの大ヒット!」と配給会社側もわざわざ驚きをアピールするほど日本でヒットしている(12月上旬現在)。その背景には、「三国志」モノの日本での根強い人気が根底にあるのは言うまでも無いが、全国公開の映画で大ヒットをかっ飛ばすとは、まさに「まさかの!」である。 日本の「三国志」人気の根底には、故横山光輝(2004年没)の漫画「三国志」の存在なくして語れないだろう。横山版「三国志」は1971年から1986年、15年の歳月を要した歴史漫画の名作(全60巻・文庫版は全30巻)。かくいうわたくし筆者も全巻そろえているし、息子の名前に三国志に登場する武将から一字をいただいていたりする。高校時代の友人に久しぶりに会ったところ、「実はオレもそうなんだ」などと告白され、彼の息子の同級生には、まんま"孔明"という名前の男子もいたりするのだとか。話は脱線したが、漫画「三国志」が、どれほど日本の20代後半以上の男性たちに圧倒的な影響を及ぼしていたかを示す一例である(と信じる)。


名作「史記」ほかこんなにたくさんある中国歴史漫画

横山光輝氏が手がけたのは「三国志」だけにあらず、のちに数多くの中国物の手がけることとなる氏が第一弾として着手したのが、北宗時代を舞台にした英雄譚「水滸伝」(連載1967~1971)。そして、秦打倒に立ち上がり、やがて覇権を争うことになるライバル2人を主人公にした「項羽と劉邦」(連載1987~1992)などが有名。そんななかで、歴史家・司馬遷(しばせん)によって書かれた歴史書をベースに、「三国志」以前の時代を描いた長編漫画「史記」(連載1994~1998) は、多くの人たちから高い評価を受ける作品である。

斉の桓公の時代(春秋・戦国時代)から漢の武帝にいたるまでをフォローし、さまざまな国の興亡、英雄たちの生き様が描かれるとともに、"牛耳る""屍に鞭打つ""刎頚の友"といった故事成語・諺・歴史用語が生まれたエピソードなどがつづられ、思わず「ためになるなぁ~」とうならせられる。漫画ならではの読みやすさで、長編ながらもサクサクと読み切れてしまうのが魅力だ。 春秋戦国時代から秦の時代は、他の漫画家も着手しており、アンディ・ラウ主演で映画化された「墨攻」(森秀樹)や、現在週刊ヤングジャンプに連載中の「キングダム」(原泰久)、台湾出身で日本漫画家協会賞を受賞し注目された鄭問(ちぇん うぇん)の「東周英雄伝」など数多い。 そのほかの時代では、北宋時代の伝奇アクション「北宋風雲伝」(滝口 琳々)、清朝末期の革命家・洪秀全を主人公にした「太平天国演義」(甲斐谷忍)など。歴史物ではないが、グルメ漫画「中華一番」(小川悦司) は清朝末期、北斗神拳伝承者の物語「蒼天の拳」は、日中戦争直前の中華民国を舞台にしている。中国ほど日本の作品の中で、様々な時代を舞台にされる国はないと思われる。さすがは四千年の歴史、奥が深い!


大河ドラマ的にハマる中華歴史ドラマ列伝。そしてあの歴史漫画が実写で!!

中国の歴史物は、すでに日本人に漫画として広く親しまれ、史実的な知識はつぎはぎながらも頭に刷り込まれているといっても言い過ぎではないと思う(強引?)。で、ようやく(発売・販売元さんゴメンなさい)、今回の歴史ドラマ列伝の話になるのだが、そのあたりの時代感をもったうえで、楽しんで(楽しみにして)もらって大いに結構の秀作・傑作ぞろいだ。

北宋時代・清朝末期・中華民国と、3つの時代にわたり守られ続けた敦煌の秘法を題材にした『大敦煌』は、全50話からなる一大巨編。史実をもとにしたフィクションで、合戦シーンの迫力のみならず、戦略的な駆け引きや、異国侵略に対する愛国心など、複数のテーマが巧みに盛り込まれ、いったんハマると抜け出せなくなる、歴史物ならではの面白さがある。中国国営テレビ製作(製作費はなんと6億円!!)なので、NHKの大河ドラマのスケールアップ版とイメージしてもらえれば。

清王朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)の妃・淑妃(しゅくひ)と文繍(ぶんしゅう)の生き様を追いながら、中国封建時代の崩壊を描いた『末代皇妃』、貧農の家の生まれながらも明王朝の創始者になった英雄の物語『朱元璋』も同様、大河ドラマ的な味わいが満喫できる秀作である。天才剣士たちのチャンバラが迫力満点で、武術使いのキャラもたっていて対戦ゲーム的なアクション色が強い『シルクロード英雄伝』(北宋時代)も必見。『臥薪嘗胆』『大秦帝国』は漫画「史記」のなかの物語、となればその実写映像版として期待は膨らむであろう(筆者もこれらは未見です)。

中国歴史を題材にした漫画は長編が多い。とすれば、ドラマシリーズとして楽しむのが適切では、と筆者は考えたりもします(「レッドクリフ」も「三国志」の赤壁の戦いだけのエピソードだしね)。漫画を読んでから中国歴史ドラマ列伝を楽しむもよし、中国歴史ドラマ列伝を見てから漫画を読むもよし。ともかく歴史物好きの人には、中国歴史ドラマ列伝はオススメのシリーズであることは間違いないでしょう。じっくり腰を据えて見てほしい。

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