第46回:これが北伐の真実か!? 諸葛孔明に使い捨てられた武将たち
文:中国エトセトラ編集部五丈原で果てた諸葛孔明。彼が北伐の先に見た世界とは、どんなものだったのだろう
蜀の武将として、戦場で名を轟かせながらも、優れ者ゆえの悲劇に見舞われた魏延。
「三国志 Three Kingdoms」では、孔明死後の北伐も描かれているので、ぜひチェックを!
劉備亡き後、諸葛孔明が中心となって繰り広げられた北伐。5回に渡って実施されながらも、目ぼしい成果をあげられなかったことから、当然、指導者である孔明にも厳罰が下されたはず...と思いきや、罰せられたのは他の武将や文官ばかり! そこで今回は、北伐失敗の責任を負わされた、可哀相な人物たちをまとめて紹介しちゃいます。
魏延(ぎえん)...孔明から嫌がらせを受け続けた悲運の猛将
五虎将軍に次ぐ能力と実績を誇る猛将。もとは劉表の家臣だったが、劉備の人柄に惹かれ、黄忠と共にその傘下に加わる。武将として高い実力を誇り、数多の戦いで蜀軍に勝利をもたらすものの、後頭部のつき出た風貌から"反骨(謀反人)の相"であるとして、孔明に忌み嫌われた。そのため、彼が実権を握った北伐の際は、毎回、適切な戦略を立案するものの採用されず、僻地の防衛など閑職を宛がわれた。やがて五丈原にて孔明が没すると、蜀軍は彼の遺言に従い、魏延を置き去りにして撤退を開始する。これに激怒した魏延は本隊を追いかけ、指揮官・楊儀(ようぎ)と対立。だが味方からも疎まれていた彼は、協力者を得ることが出来ず、ついには配下の馬岱(ばたい)に裏切り者として斬り殺されてしまう。馬謖(ばしょく)...孔明の身代わりに処刑された(!?)説もある俊英
荊州の名門・馬家の出身で、"白眉"と称された俊英・馬良の弟。政治、軍略共に並はずれた才能の持ち主で、孔明からもその才能を高く評価された。だが、劉備からは信用されていなかったようで、臨終の際には「馬謖は口先だけの男なので、決して重要な仕事を任せてはならない」と言われたという。しかし、孔明はその遺言に背いて馬謖を重用し、第一次北伐の際は重要拠点・街亭の守備を任される。その際、孔明からは街道で敵を迎え撃つように命じられるものの、これを無視して山中に布陣。結果、撤退を余儀なくされるほどの大敗北を喫してしまうことに。戦後、馬謖は敗戦の責任を負って処刑されることとなり、このことから「泣いて馬謖を斬る」という故事が生み出された。ちなみに、このエピソードには異説があり、孔明が自分の責任を弟子の馬謖になすり付けたのでは?という説も伝えられている。李厳(りげん)...苦楽を共にした盟友に裏切られ、庶民に落とされる
荊州の劉表、益州の劉璋に身を寄せた後、劉備の軍門に下った文官。孔明や法正らと共に内政を取り仕切り、蜀の建国に大きく貢献した。また、劉備臨終の折は枕元に呼ばれるなど、その人柄は多くの人々から信頼されていて、北伐の際も後方支援に徹し、孔明をサポートし続けた。だが、第四次北伐の際、長雨によって兵糧輸送が大幅に遅れ、蜀軍が撤退することになると、孔明より責任の全てを負わされて職を失い、庶民に落とされてしまう。李厳は反論しようとするが、孔明が二代皇帝・劉禅(りゅうぜん)に「李厳は自身の財を成すことしか考えていない。現在の地位を利用して悪事の限りを尽くしている」といった根も葉もない噂を吹き込んでいたため聞き入れられなかった。また彼の更迭後、息子の李豊(りほう)が孔明の配下として取り立てられたため(ほとんど人質に近い形で)、その命を守るためにも泣き寝入りするしかなかったという。「三国志」後半の中心人物であり、亡き主君のため、命を削って困難な戦いに身を投じていく忠臣として描かれる諸葛孔明。だが、その周辺で散っていった人々にクローズアップしてみると、彼には華々しい表の顔だけでなく、意外と姑息な裏の顔があったこともうかがい知ることができる。そういった視点から「三国志 Three Kingdoms」を観れば、従来とは一味違った楽しみ方ができるはずだ。