第39回:勝敗は我が掌中に!『三国志』の戦いを操る"黒の軍師七人"

文:中国エトセトラ編集部

『三国志演義』によると、李儒は董卓の娘婿として登場。董卓へ長安遷都などアドバイスをし、参謀として一時期は台頭する。

「この私を手に入れなければ。曹操の躍進はなかった」とあまりにも周囲へ吹聴していた許攸。結果その驕りが曹操の耳に届き、処刑されたという。

『レッドクリフ』ですっかり認知度もアップした周瑜。同作で諸葛亮と友情を深めているが、「三国志 ~Three Kingdoms~」では、より『演義』に忠実に、諸葛亮を陥れようとするドラマが展開する。

「三国志 ~Three Kingdoms~」終盤では、司馬懿の智謀策略、さらには人物像までもじっくりと描かれている。

軍師。それは鮮やかな計略で主の覇業を助ける存在。その活躍は豪快な武将たちの活躍とともに『三国志 Three kingdoms』でも魅力の一つとなっている。今回は、三国時代の名軍師たちの中でも、とりわけ人間臭い一面を見せる者たちを"黒の七人"と命名し、ピックアップしよう。

[壱]李儒(りじゅ 生没年不明)

『三国志演義』(以下、『演義』)では董卓の参謀として登場する李儒。董卓の悪行の裏で糸を引く男だ。史実でも、董卓が廃した少帝劉弁を毒殺し、のちに献帝によって「弑逆罪」に問われた。しかし、董卓亡きあとの実力者・李傕に取り入って命を長らえている。『演義』では董卓の罪に連座し、四つ裂きの刑に処せられるという無残な最期だ。

[弐]許攸(きょしゅう 不明~204年)

袁紹の友人であり、また有力な参謀だったが、あまりに物欲が激しいため重用されなかった。当時同僚だった荀彧には「貪欲で身持ちが悪い」と評され、帝を僭称して贅沢のかぎりを尽くした袁術からさえも「貪婪淫蕩にして不純」とこきおろされている。許攸は金に汚い男として知れ渡っていたのだろう。200年、官渡の戦いが起き曹操が窮地に立たされると、許攸は袁紹を裏切って曹操に袁紹軍の情報をもたらし、曹操軍に大勝利をもたらした。だが、その功を鼻にかけて傲慢なふるまいが多かったため、後に曹操に処刑されている。

[参]郭嘉(かくか 170~207年)

荀彧の推薦で曹操に仕え、神算鬼謀の軍師として活躍する。下邳城の水攻めを進言して呂布を破り、対袁紹戦では時局に応じたきめこまかな献策をして曹操軍を優勢に導き、はては孫策の暗殺を予言するなど、その活躍ぶりは後半の諸葛亮にも匹敵する。その一方、郭嘉には模範を逸脱した不埒な行動が多く、しばしば陳羣の弾劾をうけた。しかし部下の才能を重んじる曹操は、引き続き郭嘉を重用し、同時に陳羣の公正さも高く評価した。郭嘉は、幽州遠征の後38才で病のため急逝した。曹操はその早すぎる死に心を痛めたという。

[四]周瑜(しゅうゆ 175~210年)

廬江の名門に生まれた周瑜は、孫策・孫権兄弟に仕えた呉の智将だ。軍師というより将帥だが、その並外れた知謀の前では軍師など無用の存在。孫策とともに東呉を平定し、若き主君孫権を扶けて赤壁の戦いで曹操を打ち破り、荊州・益州へと覇業を広げようとするが、惜しくも36才で病没する。名門の美男子で楽才まであったという周瑜も、『演義』ではすっかり諸葛亮の引き立て役だ。劉備を陥れ、諸葛亮を殺そうと企む陰険さと、その貴公然とした風貌のギャップで、『演義』の周瑜はイケメン・アンチヒーローとしてのイメージが定着している。

[伍]龐統(ほうとう 178?~213?年)

荊州では諸葛亮とともに「伏竜鳳雛」と讃えられた賢人だが、風采が悪いため長く世間に認められなかった。荊州を支配した劉備は龐統の名声を聞いて召し出すが、そのお粗末な容姿に失望し、耒陽県令にする。すると龐統はふて腐れて、職務を放棄してしまった。これを聞いた諸葛亮は急いで劉備を説得したため、劉備は後悔して龐統を呼び戻した。その後の龐統は本領を発揮し、劉備の益州攻略に活躍するが、戦いの最中、降り注ぐ矢を受け戦死する。恵まれない容姿によるコンプレックス、常に諸葛亮と比較される重圧が、龐統に功を焦らせ死期を早めたのかもしれない。

[六]法正(ほうせい 176~220年)

主人である益州の劉璋を裏切り、同僚の張松らとともに劉備の益州のっとり計画を進める策士。『演義』では善玉のように描かれているが、とんでもない売国官僚である。劉備が益州を支配すると蜀郡太守となり、ここで遺恨のある相手をかたっぱしから処分、陰口をたたく者も容赦なく殺した。龐統亡きのち、劉備の軍師となった法正を諸葛亮は参謀として高く評価したが、どうしてもこの男と性格が合わなかったという。

[七]司馬懿(しばい 179~251年)

曹操の参謀の中では若手だった司馬懿も、曹操の孫曹叡が没する頃には、押しも推されもせぬ政界の大御所になっていた。曹氏一門の実力者曹爽と権力を争ったが、249年70才の時にクーデターで曹爽一派を皆殺しにすると、皇族もしのぐ実力者となり、その孫司馬炎の時代になって、ついに司馬氏は魏王朝を簒奪した。「狼顧の相」を持ち、背中に眼があるのではないかと言われた司馬懿の野心を曹操は察知し、「仲達は他人の家臣で終わる男では無い」と予言めいた言葉を残したという。

戦場を疾駆する武将達のかげで、彼らを操り、時には主君すら掌の上でもてあそぶ策士たち。ともすれば謀略に黒くそまりがちな彼らの中から、次回は、清く正義をつらぬこうとした軍師たちを"白の七人"として選び、ご紹介したい。