第33回:兵どもが夢の跡...。意外と知られていない「三国志」のその後って?

文:中国エトセトラ編集部

多くの武将が命懸けで戦った三国時代。最終的な勝者とはいったい誰なのか?

覇王・曹操の没後、頭角を現した司馬一族により魏は乗っ取られてしまう

晩年は酒に溺れることが多かった孫権。彼の死後、呉では権力争いが絶え間なく続いたという

諸葛亮に国事を託して没した劉備。だが、わずか二代で蜀は滅亡してしまう

「三国志」といえば、劉備、曹操、孫権ら名君のもとに集った武将たちが、主の天下統一のために命懸けで戦うさまも見どころのひとつ。だが、三国の君主たちが没した後のことは意外と知られておらず、諸葛亮の死と共に物語が集結すると勘違いしている人も多い模様。そこで今回は、君主没後の魏・呉・蜀のありさまについてご紹介したいと思います。

魏...重臣の台頭により、帝位を簒奪される

三国を起こした英雄のなかで、最初に没したのは曹操だった。嫡男の曹丕(そうひ)がその跡をついで魏王となったが、ほどなく漢の献帝から皇帝の位を譲られて、新たに魏王朝を興した。
"禅譲(ぜんじょう)"と呼ばれるこの儀式は、王朝を衰退させた皇帝が、血縁や有力者から有徳者を選んで皇位を譲るもので、曹丕の事例が後世の模範となった。譲るといっても、実際には強制的に退位させるので簒奪と変わらないのだが、式方を整備して手順を踏むあたりは、優美な詩を詠む文人としても名高い曹丕らしい。
それは裏を返せば、本心を見せない陰険さにも通じる。曹丕には、堅実な統治を評価される一方で、冷酷・陰湿・狭量といった暗いイメージがつきまとっている。曹丕が即位から七年後に没すると、子の曹叡(そうえい)が二代目の皇帝となった。曹叡は非常に英明な皇帝として知られるが、跡継ぎに恵まれず、親族でわずか六才の曹芳(そうほう)を後継者にしたことから、司馬懿らの重臣が台頭し、魏王朝は滅亡への道を歩み始めるのである。

呉...後継者選びが難航し、国力の衰退を招く

孫権亡きあとの呉は混乱をきわめた。七男の孫亮(そんりょう)が10才で皇帝になると、側近の諸葛恪(しょかつかく)と皇族の孫峻(そんしゅん)が対立し、やがて諸葛恪は殺害される。その孫峻も急死し、実権は同じく皇族の孫綝(そんちん)に移った。成長した皇帝・孫亮は、孫綝を排除しようとするものの逆に廃位され、帝位は孫権の六男・孫休(そんきゅう)へと移る。孫休は、隙をうかがって孫綝誅殺に成功するものの、やがて政治への興味を失い、呉の内政は乱れていく。
そして亡国へと転がる呉にとどめを指したのは、孫休の跡をついだ孫皓(そんこう)だった。孫権の孫に当たる孫皓は名望の高い人物だったが、即位したとたんに絵に描いたような暴君と化した。孫休の妻子を処刑したのち、無用の遷都を繰り返して国力を疲弊させ、さらに家臣を誅殺し、後宮で数千人の女と戯れ、意に沿わないものがあれば斬り殺して川に投げ捨てた。当時すでに、魏は司馬炎の西晋にとってかわられ、蜀も滅亡していた。そして280年、20万の晋軍は呉の都・建業を攻略し、孫皓は晋に降伏。三国時代はここに終わりを告げるのであった。

蜀...凡庸な二代皇帝により終止符が打たれる

蜀の二代皇帝となった劉禅(りゅうぜん)は、凡庸な人物だったことで知られる。"阿斗(あと)"という幼名が、馬鹿者の代名詞に使われるほどである。劉備もそのことは心得ていたようで、「息子に君主の資質が無ければ、君が取って代われ」と諸葛亮に言葉を残している。これは、諸葛亮に対する牽制ともとれるが、とにかく劉禅が将来見込みのない人物だったことは間違いない。その弊害は、諸葛亮の死後、たちまちのうちに明らかになった。
諸葛亮は、自分の後継者を費禕(ひい)、蔣琬(しょうえん)と指名していたが、この二人が死ぬと、劉禅は宦官の黄皓(こうこう)を重用しはじめ、北伐をくりかえす姜維(きょうい)と黄皓の間で権力闘争が起きた。内政が混乱した蜀は、263年に魏の大軍が侵攻してくると、あっけなく崩壊し、劉禅は魏に降伏した。その後、魏は晋へと交代したが、劉禅は父祖の出身地である幽州で安楽公に封ぜられ、天寿を全うしたと伝えられている。


こうして見比べてみると、いずれの国も偉大な創始者が亡くなると共に権力争いが勃発し、瞬く間に国力が衰退していったことが分かります。また三国を滅ぼし、最終的に中国の統一を果たした晋も、相次ぐ内乱により国力を維持することが出来ず、わずか数十年で崩壊してしまいます。このように、最終的な勝者がいないことも「三国志」の魅力を引き立てるポイントだと言えるのではないでしょうか。