第26回:"国士無双"に"万人敵"!! 著名な肩書きを持つ中国武将を一挙紹介!
文:中国エトセトラ編集部6月2日(水)にDVD-BOX Iが発売される中華歴史ドラマ列伝シリーズ「劉邦の大風歌 -漢建国記-」。本作には漢の初代皇帝・劉邦をはじめ、張良(ちょうりょう)、蕭何(しょうか)といった功臣や、後に"中国三大悪女"として知られる呂后(りょこう)など、著名な人物が次々に登場しますが、今回は、その中でも「国士無双」の肩書きを持ち、漢建国のため大いに活躍した武将・韓信にクローズアップ! その略歴や、肩書きを得るまでの過程を、同じく有名な肩書きを持つ各時代の武将たちと併せて、ご紹介していきたいと思います。
"国士無双"韓信(かんしん) ??〜紀元前196
漢帝国建国の功臣として知られる韓信は、もともと劉邦のライバル項羽の部下。唯我独尊の項羽に愛想をつかして、劉邦のもとに転職したのだ。やがて劉邦のブレーンである蕭何が韓信の才能に着目し、重く用いるよう劉邦に進言した。ところが、劉邦は何が気に入らないのか、韓信を認めようとしない。あきらめた韓信は漢軍を逃げ出したが、後を追った蕭何の説得で連れ戻される。このころ、辺境の蜀に追いやられた漢軍からは逃亡者が続出し、劉邦は激怒していた。怒りの矛先は、逃亡者韓信だけでなく蕭何にまで向けられる。この時、蕭何が韓信を弁護した言葉が「国士無双」だ。劉邦が蜀一国の主で満足するならば韓信は必要ない。だが天下をとる気ならば韓信を用いよ、彼は"国に二人といない人材"である!この蕭何の言葉に、劉邦はついに韓信の才能を信じ、全軍を指揮する大将軍に任じた。韓信はその期待に応え、劉邦の天下取りに大きな役割を果たしたのである。"飛将軍"李広(りこう) ??〜紀元前119
前漢の李広は、敵対する匈奴から「飛将軍」と称され、恐れられた武将だ。隴西(今の甘粛省出身)の騎士として皇帝に仕え、馬を駆りながら弓を引けば百発百中、文帝主催の巻き狩りでは剣をふるって猛獣をたおす武勇を見せつけた。やがて李広は匈奴との国境地域に配属され、辺境守備で名をあげる。なかでも、自軍に10倍する匈奴軍に包囲された逸話は有名だ。このとき李広は、伏兵があるかのように見せかけ、ゆっくりと退却することで匈奴の追撃を躱した。「飛将軍」、すなわち騎馬の巧みさと用兵の迅速さを讚えられた李広は、頭脳戦にすぐれた智将でもあったのだ。後世、武勇にすぐれた将軍を「飛将軍」と呼ぶのは、李広にあやかってのことである。"三箭定天山"薛仁貴(せつじんき) 614〜683
薛仁貴は唐の太祖・李世民に見いだされ、一兵卒の身から一日にして游撃将軍となった武将だ。生涯、前線の現役軍人として過ごし、出世にはあまり縁が無かった。しかし、その勇猛な逸話は古くから詞や小説にうたわれ、中国では人気が高い。特に、白装束に双戟をひっさげて高句麗軍に斬り込み、敵を総崩れにした初陣のエピソードがよく知られている。高句麗の滅亡後は西北や南方の辺境を転戦した。九姓突厥10余万の軍が唐の西北を侵した時のこと、敵の先鋒が突撃してくると見るや、薛仁貴は目にもとまらぬ早業で三本の矢をはなち、一瞬にして三人の騎兵を葬った。これを見て突厥軍は戦意を喪失し、唐に降ったのである。わずか三本の矢で天山を平定した英雄、「三箭定天山」の伝説はここから生まれた。後年、老将となった薛仁貴は再び突厥と対峙したが、突厥軍はその名を聞いただけで退却したという。"万人敵"韓世忠(かんせいちゅう) 1088〜1151
北宋の将軍・韓世忠は、英雄・岳飛と並び称される。方臘(ほうろう)の乱が起きると、王淵の部下として征伐にしたがった。ここで、韓世忠はめざましい働きを見せ、ついには反乱軍の首魁である方臘を捕える。一人で千人と戦い得る武将を一騎当千と呼ぶが、韓世忠の勇猛果敢な戦いぶりはそれを上回った。王淵は、韓世忠は一人で万人を敵とする「万人敵」であると、絶賛したのである。宋が北方の金の侵略を受けるようになると、韓世忠は抗金の戦いでも大功をあげ、時の皇帝から「中興武功第一」と讚えられた。彼には梁紅玉(りょうこうぎょく)という妻がいたが、彼女もまた将軍として夫を助け、めざましい働きをしたという。
戦場に華々しい逸話を残す武将たちは、なぜか恵まれない晩年を過ごすケースが多いようです。例えば韓信は、天下統一の後に劉邦から謀反の疑いをかけられて刑死し、李広は後輩・衛青(えいせい)との功名争いの果てに自滅。また、副将にめぐまれなかった薛仁貴は、敗戦の責任を問われて庶民に落とされ、韓世忠は金との講和が進む中で兵権を剥奪されています。主君のために戦場で命をかける一本気な姿と、無情な晩年というギャップが、彼らの人生をより魅力的なドラマに見せているのかもしれませんね。