第12回:大改革の立役者・孝公&商鞅。君主と参謀の絆が歴史をおもしろくする! 文:中国エトセトラ編集部
現在わが国では、映画やドラマ、ゲーム、漫画、小説などを中心に、空前の歴史ドラマ・ブームが起こっています。なかでも『レッドクリフ』や『天地人』をはじめとした、軍師・参謀が活躍する作品に人気が集中している模様。その理由は、知略を駆使して戦う彼らの姿が、現代社会に生きる私たちにとって親しみやすい点にあると言えるでしょう。
ですが、いかに優れていたとしても参謀一人の力では、歴史に名を残す程の大偉業を遂げることは出来ません。彼らの意見を聞き入れてくれた主君との連携があったからこそ、成し遂げることが出来たのです。そこで今回は、『大秦帝国』で活躍する孝公(こうこう)と商鞅(しょうおう)主従を中心に、各時代の名君主&名参謀をご紹介していきたいと思います。
春秋戦国時代。法家としても知られる商鞅は、強国“魏”に仕えていましたが、主君の横暴さに憤りを感じ出奔してしまいます。その頃、隣国“秦”では、25代君主・孝公が国政の建て直しをはかるため優秀な人材を探していました。秦に入国し、孝公への謁見を許された商鞅は、ここぞとばかりに国政の在り方について熱弁を振るいます。しかし、この時は話が難し過ぎたため理解してもらえませんでした。しかし、商鞅は諦めません。孝公に名君の資質があると見込んだ彼は、その後も幾度となく、分かりやすい内容で国家改革の必要性を説きました。その熱意に打たれ、ついに孝公も改革の断行に踏み切ることを決意します。しかし、新しく制定された法律はどれも厳しい内容のものばかりで、誰も守ろうとはしませんでした。けれども孝公が、功績を成した者は身分に関係なく賞賛し、罪を犯した者は王族であっても罰するという厳格な姿勢をとったため、新法は徐々に広まっていきます。その結果、秦はわずか数十年で国力を回復し、強国に生まれ変わることに成功したのです。これは「法による統治のもと“富国強兵”を目指す」という2人の目標が一致したからこそ、成し遂げることの出来た偉業と言えるでしょう。 後漢末期。若い頃より“臥龍”(=いずれ大物となる人物)と称されていた諸葛亮は、仁君として知られる劉備より“三顧の礼”をもって軍師に迎え入れられます。しかしこの頃の劉備軍は、拠点となる領地すら持たない弱小勢力。聡明な諸葛亮がそれを承知で従軍したのは、劉備の人柄によるところが大きいと言えます。「自身の利益よりも、受けた恩や民衆の命を第一に考える」という行動原理や、一介の隠者でしかない自分にまで礼を尽くしてくれたその人徳の深さに心を打たれたのでしょう。実際、諸葛亮の加盟後も、10万人もの民衆を引き連れての逃亡戦(=長坂の戦い)など、劉備の性格ゆえに困難を極めた戦いは数多く続きました。しかしそれ故に彼の軍略も研ぎ澄まされ、名参謀として後世に名を残すほどの活躍が果たせたとも言えるのではないでしょうか。 殷朝末期。小説「封神演義」の主人公・太公望のモデルにもなった呂尚(りょしょう)は、チベット系の部族・羌族(別名:タングート)の末裔であると言われています。悪政の限りを尽くす殷に強い反感を抱いていた呂尚は、これを打ち倒そうとする為政者が現れることを信じ、数々の策を考えていました。そして、民衆のために殷を滅ぼそうと考える名君・文王と出会い、その軍師に迎え入れられます。しかし、高齢であった文王は、その後間もなく他界。跡を継いだ息子の武王は呂尚を師と仰ぎ、その教えに従って国力の強化に着手します。また呂尚も血気に逸る王を諌めながら、民衆の全てが新王朝の樹立をもとめるタイミングを見計らいます。そして好機が到来するや進言し、王は行軍を開始。勢いに乗る武王の軍は殷を攻め滅ぼし、ついに周王朝を打ち立てるのでした。
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