第11回:中国統一の覇者・始皇帝。そのバックボーン・秦王朝の歩みを大検証 文:中国エトセトラ編集部
中国史上、初の統一国家である“秦”といえば、万里の長城などの文化遺産を建築し、数々の偉業を達成した始皇帝の存在がクローズアップされがち。ですが、私たちが知っているのは、意外と始皇帝が即位して以降の功績ばかりで、秦という国家の全土統一までの歩みや、統一以前の中国の全貌についてはあまり知られていません。そこで今回は、秦という国の興りから始皇帝による全土統一までの流れを、検証していきたいと思います。
紀元前770年。当時の王朝であった周の権威は地に落ち、中国全土は諸国が覇権をめぐって争う、春秋・戦国時代に突入していました。何百年にも及ぶ戦乱の果て、大陸には楚(そ)・斉(さい)・燕(えん)・趙(ちょう)・魏(ぎ)・韓(かん)、それに秦を含めた“戦国の七雄”と呼ばれる7つの強国が並び立ち、各国はその存亡をかけて激しい戦いを繰り返していました。これだけ聞くと、日本の戦国時代を連想してしまいそうですが、中国の国土は日本の約25倍。それを単純に7国で割ったとしても、1国の大きさは日本の3倍以上に当たります。戦場の規模や動員される兵士の数もそれに比例して増えると考えたら、いかに大規模な戦争が繰り広げられていたのかが分かるでしょう。つまり、中国というひとつの国という概念はなく、7つの国が集まっていたという感じでしょうか。本当の意味でひとつの国として統一することに成功した始皇帝のすごさも改めて認識することが出来ます。 7国の中で最も西方に建国された異民族国家だったため、中原に興った他の国々からは野蛮と蔑まれ、文化の交流はあまり持っていなかった秦国。幸か不幸か、この境遇のおかげで秦には、他国の文化に影響されることなく独自の力で国家を繁栄させていこうという風土が生まれます。事実、9代・穆公(ぼくこう)の時代には、独自の政治により国の強化に着手し、領土拡大にも成功しています。しかし、そのシステムはまだ確立していなかったようで、穆公没後間もなく国力は一気に低下。さらに隣国・魏からの度重なる圧迫により、滅亡の危機にまで追いやられてしまいます。 国の強化に失敗し、いよいよ進退の窮まった秦ですが、25代・孝公(こうこう)の時代に、ある変革が起こります。この孝公とは、始皇帝から数えて6代前に当たる人物で、彼とその右腕として活躍した政治家・商鞅(しょうおう)が実行した大改革によって、秦はわずか20数年で滅亡の危機から立ち直り、戦国最強国に変貌を遂げることに成功したのです。 改革の内容については、中華歴史ドラマ列伝『大秦帝国』の中で詳しく描かれていますが、主だった新法をいくつか紹介すると、まず、五戸を一組と制定して、民衆間で互いの監視を義務付けさせた「什五制(じゅうごせい)」が挙げられます。また、父子兄弟を分家させ、強制的に戸数を増やし生産力の向上を計る「分異法」や、「阡陌制(せんぱくせい)」と呼ばれる土地の区画整理なども、この時代に施行された新法に含まれています。 改革の成功により国力の強化に成功した秦は、勢いに乗り他国への侵攻を開始し始めます。その軍事力を恐れた諸国は、連合軍を結成しこれに対抗するものの、秦の勢いを止めることは出来ません。こうして孝公の代からの数々の政策や軍事力、生産力が次世代へと引き継がれていき、紀元前221年、31代となる始皇帝はついに中国全土の統一を果たしたのです。 始皇帝による統一後も、秦の政治システムは孝公の時代に編み出されたものが改良を加えながら使われ続けました。では実際に、それらはどのような形に昇華していったのか、何点か例に挙げて詳しく見てみましょう。 孝公以前の時代では、手幅や歩幅がモノを測る基準とされていた。しかしこれでは、物事の測量時に正確な数値を知ることが出来なかった為、長さを計る基準を“度”、体積は“量”、そして重さは“衡”と定め、数値を測るための単位“度量衡”が制定された。これにより土地ごとの生産高や商品の流通が正確に把握できるようになり、秦の経済は安定した。始皇帝はこれに加え、情報の伝達やモノの流通をよりスムーズに行えるよう、支配地域ごとの文字や貨幣の統一も実施した。これによって、中国全土の経済状況は飛躍的に向上することとなった。 孝公以前の時代では、手幅や歩幅がモノを測る基準とされていた。しかしこれでは、物事の測量時に正確な数値を知ることが出来なかった為、長さを計る基準を“度”、体積は“量”、そして重さは“衡”と定め、数値を測るための単位“度量衡”が制定された。これにより土地ごとの生産高や商品の流通が正確に把握できるようになり、秦の経済は安定した。始皇帝はこれに加え、情報の伝達やモノの流通をよりスムーズに行えるよう、支配地域ごとの文字や貨幣の統一も実施した。これによって、中国全土の経済状況は飛躍的に向上することとなった。 先秦時代の中国では、国同士の大規模な戦争が絶え間なく続いていて、新しい法律が布かれても二転三転するのは当たり前だった。民衆が法律に従わなくなる事態を懸念した孝公らは一計を案じ、農業や戦闘で功を成した者には、賞金や爵位を授与したり、税を免除するなどして大いにもてなした。また法を守らない者は、例え王族であっても厳しく罰したので、秦の民衆は法律の公正さを信じるようになり、新法の数々を遵守するようになった。この教えが国内に徹底して行き渡ったおかげで、始皇帝は大規模な遠征や土木工事など、多くの民衆を動員しなければならない大事業に取り掛かることが出来た。 こうして時代の流れを追ってみると、始皇帝だけでなく、孝公や商鞅らをはじめとした先秦時代の人々の尽力があったからこそ、秦は全土統一という大偉業を遂げることが出来たということがよく分かります。『大秦帝国』では、並々ならぬ苦労の末、改革を成功に導いた孝公・商鞅の苦闘が描かれています。華々しい始皇帝の活躍だけでなく、国家の繁栄を目指し活動を続けた彼らの生き様は、混迷の現代社会に生きる私たちにとっても良いお手本になるのではないでしょうか。 |
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